第四百六十九話「隙間のない部屋と、姫殿下の『渦巻きの協奏曲』」
その日の午後、王城の地下にある古い資材置き場は、神経質な静けさに支配されていた。
そこにいたのは、城の在庫管理を任された細身の書記官、ウォルフガングだった。彼は、帳簿の余白や、壁のシミ、床のタイルの目地といった「何もない空間」を見つめるたびに、冷や汗を流していた。
彼にとって、空白とは「虚無」であり、「世界の裂け目」だった。彼は無意識のうちに、帳簿の隙間を意味のない数字や螺旋模様で埋め尽くさずにはいられない衝動を抱えていたのだ。
「隙間が……隙間が私を見ている。埋めなくては。世界が崩れてしまう前に、すべてを記述し、連結しなければ……」
彼の周りには、黒いインクでびっしりと埋め尽くされた紙片が散乱し、狂気にも似た創造の熱気が渦巻いていた。
そこへ、シャルロッテがモフモフを抱いて迷い込んできた。
普通の人間なら、ウォルフガングの異様な様子と、壁や床にまで及ぼそうとする落書きの衝動に恐怖したかもしれない。
しかし、シャルロッテは違った。彼女の瞳は、その過密な空間を見て、万華鏡を覗き込んだ時のように輝いた。
「わあ! ウォルフガングお兄さん! ここ、すっごく賑やかだね!」
シャルロッテには、彼が描く無数の螺旋や数字が、「寂しい隙間を埋めるための、小さなお喋りたち」に見えていたのだ。
「ひ、姫殿下……。見てはいけません。これは私の病です。私は空白が怖いのです」
ウォルフガングは震える手でペンを握りしめていた。
シャルロッテは、彼の隣に座り込み、ポケットから虹色のクレヨンを取り出した。
「病気じゃないよ。お兄さんはね、世界中の隙間に、『愛の音符』を詰め込んでいる作曲家さんなんだよ」
シャルロッテは、光属性と音響魔法を融合させた。
彼女は、ウォルフガングが描きかけの螺旋模様の隙間に、クレヨンで新しい色を足した。
そして、その線の上に、小さな音符のような記号を書き加えた。
「ほら、見て。線が繋がるとね、歌い出すんだよ」
シャルロッテが指でなぞると、壁に描かれた螺旋模様が、ぐるぐると回転を始め、そこから、パパパ、ラララ、という、トランペットのような愉快な音が鳴り響いた。
それは、視覚的な図形が、そのまま聴覚的な音楽へと変換される、共感覚の魔法だった。
「音が……鳴っている? 私の描いた線が、音楽になった?」
「うん! 隙間があるとね、音が途切れちゃうでしょう? だから、全部埋めるの! 世界中を、楽しい音でギュウギュウにするの!」
シャルロッテの言葉は、ウォルフガングの強迫観念を、「終わりのない祝祭の準備」へと変えた。
彼は、恐怖からではなく、歓喜からペンを走らせ始めた。
二人は、壁、床、天井、そして積み上げられた木箱に至るまで、あらゆる「余白」を埋め尽くしていった。
ウォルフガングの描く緻密な幾何学模様の隙間に、シャルロッテがパステルカラーの花や、笑っている顔、そしてお菓子の絵を描き込む。
それらは全て繋がり、巨大な曼荼羅のような一つの絵となり、部屋全体が、重厚なオーケストラと子供の笑い声が混ざり合ったような、賑やかな音楽を奏で始めた。
騒ぎを聞きつけたマリアンネ王女が、扉を開けた瞬間、彼女はめまいを覚えた。
「な、なんなの、この情報の密度は……! 視界の全てが埋め尽くされているわ! それに、この絵、歌っている!?」
部屋は、もはや資材置き場ではなかった。
そこは、色彩と線と音が、一ミリの隙間もなく敷き詰められた、「過密な幸福の小宇宙」だった。
シャルロッテは、最後の小さな隙間――マリアンネの白衣の裾の余白――に、小さなハートマークを描き足して、満足げに筆を置いた。
「ふう。これで完成! ね、お兄様、お姉様。寂しい場所なんて、もうどこにもないよ。全部、音楽とお友達でいっぱいだもん!」
ウォルフガングは、汗だくになりながらも、憑き物が落ちたような笑顔で、壁の絵(楽譜)を指揮していた。
彼の「空間恐怖」は、シャルロッテによって「空間愛好」へと反転し、その過剰なエネルギーは、誰も真似できない芸術へと昇華されたのだ。
その日の午後、地下室から響く、目もくらむような色彩のシンフォニーは、王城の人々に、「世界は、こんなにも愛と驚きで満ち溢れている(隙間がないほどに!)」ということを、強烈に知らしめたのだった。




