第四百六十七話「霧の彼方の市と、姫殿下の『あくびの支払い』」
その夜、エルデンベルク王国の月は、青白く、冷たい光を放っていました。
城の庭園には、地面から湧き出すように深く濃い霧が立ち込め、見慣れた薔薇のアーチや噴水の輪郭を、曖昧に溶かしていました。
マリアンネ王女は、実験塔の窓からその異様な霧を見て、機器の針が狂ったように振れていることに気づきました。
「魔力濃度が異常に高い……。空間の座標がずれているわ。庭園の一部が、『あちら側』と重なっている」
彼女が慌てて庭へ降りると、そこには既に、パジャマ姿のシャルロッテと、モフモフが立っていました。
シャルロッテは、恐れる様子もなく、霧の奥を楽しそうに覗き込んでいます。
「静かにね、お姉様。今夜は『市』が立っているのよ」
「市ですって?」
マリアンネが目を凝らすと、霧の向こうに、ぼんやりとした無数の灯りが見えてきました。
それは、鬼火のように青く揺らめくランタンの光でした。
光の下には、奇妙な形をした屋台が並び、影のような、あるいは動物のような姿をした「何か」が行き交っています。
彼らは音もなく歩き、言葉ではないささやき声で会話をしていました。
並べられている商品は、人間の市場にあるような野菜や布ではありません。
瓶詰めされた「雷の音」、束ねられた「虹の根っこ」、籠に盛られた「誰かが見た夢の欠片」。
そこは、形のないものが売買される、異界の市場でした。
「入ってみましょう」
シャルロッテは、躊躇するマリアンネの手を取り、霧の境界線を越えました。
一歩踏み入れた瞬間、空気の密度が変わり、肌にピリピリとした静電気が走りました。
市場の住人たちは、王女たちの姿を見ても驚きませんでした。彼らにとって、迷い込んだ人間もまた、ただの珍しい客の一人に過ぎないようでした。
顔のない商人が、マリアンネの前に、ガラスの器を差し出しました。
中には、銀色に光る液体が入っています。
「……これは、『忘却のしずく』ですか? それとも『純粋な論理の抽出液』?」
マリアンネが学術的な興味で尋ねると、商人はただ、器を揺らしてカラカラと笑うような音を立てただけでした。
一方、シャルロッテは、一つのお店に釘付けになっていました。
そこは、長い髭を生やした老木の精霊が店主をしている屋台で、店先には色とりどりの「シャボン玉」のようなものが浮いていました。
「おじいさん、これなあに?」
精霊は、枯れ木のような指で一つを指さしました。
そのシャボン玉の中では、小さな星が生まれては消え、生まれては消えを繰り返していました。
『星の瞬きの、一番最初の音じゃよ』
頭の中に直接響くような声で、精霊は答えました。
「わあ、綺麗……。これ、くださいな」
シャルロッテが言うと、精霊は手のひらを差し出しました。
しかし、この市場では金貨は通用しません。ここでは、等価の「形のないもの」で支払わなければならないのです。
「お代は?」
『さよう……。お嬢さんの、とびきり大きな、眠たげな『あくび』をひとつ、いただこうか』
マリアンネは驚きました。あくびが通貨になるなんて、論理的に説明がつきません。
しかし、シャルロッテは「いいよ」と頷きました。
彼女は、夜更かしの眠気を集めて、口を大きく開けました。
「ふわぁぁぁ……」
涙目が浮かぶほどの、立派で無防備なあくびが出ました。
精霊は、そのあくびから漏れ出た「眠気の空気」を、素早く小瓶に詰め込み、コルクで栓をしました。小瓶の中では、シャルロッテのあくびが、ピンク色の霧となって渦巻いています。
『良いあくびだ。純度が高い。これなら、不眠症の風の精霊も喜ぶだろう』
精霊は満足げに頷き、星の瞬きが入ったシャボン玉を、シャルロッテの指先に渡しました。
シャボン玉は割れることなく、指輪のように彼女の指に巻き付きました。
「ありがとう! 大切にするね」
買い物を終えた二人は、市場の奥へと進みかけましたが、東の空が白み始めると同時に、霧が急速に晴れ始めました。
屋台も、光も、住人たちも、朝の光に溶けるように薄れていきます。
「おや、閉店の時間だ」
「帰らなくちゃ」
シャルロッテとマリアンネが気づいた時には、二人は元の庭園の真ん中に立っていました。
朝露に濡れた芝生だけが、そこにおり、異界の気配は跡形もなく消えていました。
「……夢、だったのかしら」
マリアンネは眼鏡の位置を直しながら呟きました。あの不思議な体験は、科学的にも魔術的にも証明不可能です。
しかし、シャルロッテの指先には、微かな光の輪が残っていました。
耳を澄ますと、そこからは、チリン、チリンと、星が生まれる時の産声のような、可愛い音が聞こえてきます。
「夢じゃないよ。ほら、星の音がする」
シャルロッテは、その見えない指輪を、大事そうに胸に抱きました。
モフモフが、足元で「ミィ」と鳴きました。彼の口元には、市場でこっそりもらったらしい「月の光の破片」が、金平糖のようにくっついていました。
世界には、人間の論理では計り知れない、不思議な市が立つ夜がある。
それを知っただけで、いつもの朝が、少しだけ神秘的で、愛おしいものに見えるのでした。




