第四百六十三話「手付かずの草原と、姫殿下の『裸足の哲学』」
その日の午後、王城は「完璧な文明の音」で満たされていた。
時計塔の鐘が正確に時を告げ、衛兵の靴音が規則正しく響き、貴族たちは複雑な礼儀作法の通りに挨拶を交わしている。すべてが管理され、装飾され、秩序立っていた。
しかし、シャルロッテは、その完璧さに、ふと息苦しさを覚えた。
締め付けられるドレスのレース、硬い革靴、分刻みのスケジュール。それらは「文明」という名の、重たくて窮屈なコートのようだった。
「ねえ、モフモフ。今日は『姫殿下』をお休みしよう」
シャルロッテは、モフモフを連れて、城の敷地の最も外れにある、庭師の手さえ入っていない「忘れられた草原」へと向かった。
そこは、美しく整えられた薔薇園とは違い、雑草が生い茂り、虫たちが自由に飛び回る、野性味あふれる場所だった。
草原の真ん中に立つと、シャルロッテは、迷わず革靴を脱ぎ捨てた。
さらに、白い靴下も脱いで、放り投げた。
裸足の足裏が、ひんやりとした土と、柔らかい草の感触を直接捉える。
「……あ。いま、地球と、くっついた」
シャルロッテは、そのまま草の上に大の字に寝転がった。
ドレスが汚れることなど気にしない。
彼女の視界には、ただ高い空と、流れる雲だけがあった。時計の音も、礼儀作法も、ここにはない。
「人間はね、生まれたときは裸ん坊で自由だったんだよ。でも、みんな自分で鎖をつけて、難しくしちゃったの」
シャルロッテは、そんなことを呟きながら、草の茎を一本引き抜き、口に咥えた。青臭い、自然の味がした。それは、宮廷料理人が作ったどんな洗練されたスープよりも、鮮烈で、「生きている」味がした。
モフモフも、首輪の鈴を鳴らしながら、草むらを転げ回っている。彼もまた、本来の野生の喜びを思い出しているようだった。
そこへ、執事のオスカーが、懐中時計を片手に、血相を変えて現れた。
「姫殿下! ここにいらしたのですか! 今は『詩の朗読』の時間ですぞ! それに、なんですかその格好は! 裸足だなんて、王族としてありえません!」
オスカーは、文明と規律の守護者として、シャルロッテを「正しい世界」へ連れ戻そうとした。彼の背広は皺一つなく、靴はピカピカに磨かれている。
シャルロッテは、寝転んだまま、オスカーを見上げた。
逆さまに見るオスカーは、なんだか滑稽で、不自然に強張って見えた。
「ねえ、オスカー。時計は止まるけど、太陽は止まらないよ」
「は? 何をおっしゃっているのですか」
「オスカーの持っている時計は、人間が作ったルールだよ。でもね、ここの風とか、草の匂いは、誰にも命令されないの。こっちのほうが、本当の世界だと思わない?」
シャルロッテは、自分の隣の草むらをポンポンと叩いた。
「オスカーも、靴を脱いでごらんよ。地面がね、足の裏にキスしてくれるよ」
オスカーは絶句した。執事が勤務中に靴を脱ぐなど、天地がひっくり返るほどの不祥事だ。
しかし、シャルロッテの瞳は、どんな宝石よりも澄んでいて、そこには「命令」ではなく、「招待」があった。そして、風がオスカーの頬を撫でた時、彼はふと、自分が最後に土の上を裸足で歩いたのがいつだったか、思い出せなくなった。
オスカーは、周囲を見回した。誰もいない。
彼は、震える手で、革靴の紐を解いた。
そして、恐る恐る、靴下を脱ぎ、芝生の上に足を下ろした。
チクリとした草の刺激。湿った土の冷たさ。
その感覚が、足の裏から脳天へと駆け上がり、彼を縛っていた「執事の仮面」にひびを入れた。
「……なんと。これは……」
オスカーは、よろめくようにして、シャルロッテの隣に座り込んだ。
背中の力が抜け、完璧だった姿勢が崩れる。彼は、深く、深く深呼吸をした。肺の中に、草いきれと土の香りが満ちる。
「姫殿下。私は、自分が人間である前に、生き物であることを忘れておりました」
オスカーは、懐中時計をポケットの奥深くにしまい込んだ。
今の彼にとって、時間は「刻むもの」ではなく、「流れるもの」になったのだ。
シャルロッテは、風に揺れる野花を指さした。
「見て。あのお花はね、誰に見せるためでもなく、ただ咲きたいから咲いているの。私たちも、今日はただの『生き物』になって、ここにいようよ」
特別な事件は何も起きなかった。
ただ、王女と執事と不思議な獣が、草むらの中で、社会的な役割を脱ぎ捨てて、流れる雲を眺めていただけだ。
しかし、その「何もしない時間」こそが、文明の重圧に疲れた魂にとって、最も贅沢な回復魔法だった。
夕暮れになり、再び靴を履く時、二人は少しだけ残念そうだったが、その足取りは来る時よりもずっと軽く、力強くなっていた。
彼らは、自然という名の「故郷」の空気を、胸いっぱいに持ち帰ったのだから。




