第四百六十一話「ラッコの知恵と、王族たちの『流されないためのお昼寝』」
その日の午後は、王城全体が、とろけるような眠気の海に沈んでいた。
春の陽気が窓から差し込み、空気中の酸素濃度が「お昼寝」に最適な数値を示している(と、マリアンネ王女が言っていた)ような日だった。
シャルロッテは、薔薇の塔の広い絨毯の上で、モフモフと一緒にごろんと横になっていた。
そこへ、公務や訓練を終えた兄姉たちが、磁石に吸い寄せられるように集まってきた。みんな、抗いがたい睡魔に誘われて、シャルロッテの周りで休憩を取ろうとしているのだ。
アルベルト王子は、本を読もうとして舟を漕ぎ、フリードリヒ王子は豪快に大の字になり、イザベラ王女はクッションを抱えて優雅にまどろみ、マリアンネ王女は眼鏡を外して目をこすっている。
広い部屋の中で、みんながバラバラの方向を向いて、それぞれの「眠りの世界」へ旅立とうとしていた。
シャルロッテは、ふと、前世で見た動物の図鑑のことを思い出した。
「ねえ、みんな。海に住むラッコさんって知ってる?」
シャルロッテの唐突な問いかけに、半分夢の中にいた兄姉たちが、「んん?」と反応した。
「ラッコ……? 海獣の一種だな。毛皮が上質だと聞くが」とフリードリヒが眠そうな声で答える。
「うん。ラッコさんはね、海の上でプカプカ浮かんで寝るんだけど、起きてもバラバラにならないように、あることをするんだよ」
「あること?」
シャルロッテは、得意げに豆知識を披露した。
「ラッコさんはね、寝ている間に波に流されて、大切な家族や友達とはぐれないように、みんなで『手をつないで』寝るんだよ!」
その瞬間、部屋の空気が、ほんのりと色づいたような気がした。
あの無骨なフリードリヒでさえ、「……なんと。それは、騎士の連携よりも強固な絆ではないか」と感心した。
イザベラは、「まあ、なんて愛らしい習性でしょう。海の上の社交界ね」と微笑んだ。
シャルロッテは、絨毯の上を泳ぐように這って、フリードリヒの手をぎゅっと握った。
「ここはね、『眠りの海』だよ。みんな、油断していると、夢の波に流されて、遠くに行っちゃうかもしれないよ?」
その言葉は、ただの遊びの誘いだったが、不思議な説得力を持っていた。眠りの世界は孤独だ。でも、手をつないでいれば、同じ夢を見られるかもしれない。
「……そうだな。シャルが流されたら大変だ」
フリードリヒは、妹の小さな手を、壊れ物を扱うように優しく、しかし大きな手でしっかりと握り返した。
そして、彼のもう片方の手は、隣でウトウトしていたアルベルトの腕を掴んだ。
「なっ、フリードリヒ、暑苦しいぞ……」
「兄上、流されますよ。ラッコの知恵に従うべきです」
「……非論理的だが、安全対策としては一理あるか」
アルベルトは苦笑しながら、フリードリヒの手を振り払わず、反対側の手でマリアンネの手を握った。
マリアンネは、すでに夢見心地で、自然にイザベラの手を探り、イザベラは優雅にモフモフの前足を握った。
そして、モフモフのもう片方の前足は、シャルロッテの手に握られている。
こうして、絨毯という「海」の上に、王族と一匹による、巨大な「ラッコの輪」が完成した。
誰も言葉を話さなかった。
ただ、繋がれた手から伝わってくる、それぞれの体温と、一定のリズムで刻まれる脈拍だけがあった。
フリードリヒの手のゴツゴツした硬さ。イザベラの手の滑らかさ。モフモフの肉球の弾力。
それらが、「みんなここにいるよ」という安心感を、無言のうちに伝え合っていた。
「……あったかいね」
シャルロッテが呟くと、誰かが「ああ」と短く応えた。
窓から入る風が、レースのカーテンを揺らし、部屋の中に光の波紋を作った。
彼らは、手をつないだまま、誰一人として「はぐれる」ことなく、同じ午後、同じ場所で、深い安息の眠りへと落ちていった。
後から様子を見に来たルードヴィヒ国王とエレオノーラ王妃は、床に広がるその幸せな「人間の鎖」を見て、足の踏み場がないことに苦笑しつつも、自分たちもそっとその端っこに座り、子供たちの寝顔を見守ることにした。
王妃が国王の手の甲にそっと手を重ねたのは、きっとラッコの真似をしたかったからだろう。
それは、魔法も冒険もないけれど、どんな宝物よりも温かい、「流されない絆」を確認した午後だった。




