第四百六十話「巨木の枝の小宇宙と、姫殿下の『ミクロの森探検』」
昨日の華やかなヘアサロンごっことは打って変わって、翌朝の王城の裏庭は、湿った土の匂いと、深い静寂に包まれていた。
朝霧が立ち込め、世界は白く、輪郭を失っている。
シャルロッテは、防水のブーツを履き、モフモフを抱いて、庭園の最も奥にある「長老のオーク」と呼ばれる巨木の下に立っていた。
彼女は今日、誰かと遊ぶためではなく、この木に住む「小さな住人たち」に挨拶をしに来たのだ。
「ねえ、モフモフ。木って、遠くから見ると『一本の木』だけど、近くで見ると『ひとつの国』なんだよ」
シャルロッテは、目の高さにある太い枝に注目した。
そこには、鮮やかな緑色の苔がびっしりと生え、昨夜の雨の雫を湛えていた。普通の人なら見過ごしてしまう景色だが、シャルロッテにはそこが、未踏のジャングルの入り口に見えていた。
彼女は、光属性魔法を応用し、自分の目の前に「拡大レンズ」のような光の膜を作り出した。
さらに、風属性魔法で「集音機」を作り、耳に当てた。
「さあ、探検の始まりだよ」
レンズ越しに見る枝の上は、驚異的な世界だった。
肉眼ではただの緑の絨毯に見えた苔は、拡大すると、透き通るようなエメラルド色の、背の高い木々の密林だった。
一本一本の苔が、水分を含んで瑞々しく立ち上がり、その先端には、宝石よりも精巧な形の胞子のカプセルがついている。
「わあ……。苔の森だわ。キラキラしてる」
その「苔の森」の中を、肉眼では塵のようにしか見えない小さな虫が歩いていた。
しかし、レンズ越しに見ると、それは鎧をまとった勇猛な騎士のようだった。六本の足で器用に苔の幹をかき分け、朝露のついた葉を揺らして進んでいく。
集音魔法を通すと、カサッ、カサッという、虫の足音が、落ち葉を踏みしめる重厚な音として聞こえてきた。
枝の窪みには、雨水が溜まっていた。
それは、ミクロの世界では「巨大な湖」だった。
水面は鏡のように空を映し、時折、微風でさざ波が立つ。水の中では、目に見えない微生物たちが、忙しく泳ぎ回っているのが、光の屈折でわかった。
「見て、モフモフ。あの一滴の水の中に、何千匹もの生き物が住んでいるのよ。彼らにとっては、あそこが世界のすべてなのね」
モフモフも、シャルロッテの魔法のレンズを覗き込み、鼻をヒクヒクさせた。彼にも、その小さな世界の熱気が伝わっているようだ。
突然、雲間から太陽の光が差し込んだ。
一筋の光が、枝の上の「苔の森」と「雨水の湖」を照らした瞬間、世界が黄金色に爆発した。
数え切れないほどの水滴が、プリズムとなって光を乱反射させ、枝の上には、現実の宝石箱を遥かに凌駕する、光の洪水が溢れたのだ。
植物たちが、光を浴びて「光合成」を始める、静かな喜びの波動。
虫たちが、暖かさを感じて活発に動き出す、生命の音。
水が蒸発して霧になり、再び循環していく、物理的な儀式。
それらすべてが、たった一本の枝の上で、完璧な秩序を持って行われていた。
「……すごい。誰も見ていなくても、こんなに一生懸命、世界は回っているんだ」
シャルロッテは、圧倒されて、ため息をついた。
人間が王城で政治をしたり、ドレスを着飾ったりしている間にも、足元の小さな世界では、誕生と成長、捕食と循環という、壮大なドラマが繰り広げられているのだ。
そこに、庭師のハンスが、音もなく近づいてきた。彼もまた、朝の庭の巡回中だった。
ハンスは、シャルロッテが何を見ているのかを悟り、静かに微笑んで隣に立った。
「姫殿下。その枝一本の中に、王国の歴史と同じくらいの、濃密な時間が流れておりますよ」
「うん、ハンスさん。ここはね、とっても大きな『小さな宇宙』なんだよ」
シャルロッテは、魔法を解いた。
景色は、元の「ただの苔むした枝」に戻った。
しかし、シャルロッテとハンス、そしてモフモフの目には、もうそれは「ただの枝」には見えなかった。そこは、数え切れない命が懸命に生きる、尊厳ある大陸だった。
「お邪魔しました。今日も一日、元気でね」
シャルロッテは、枝に向かって小さく手を振った。
特別なことは何も起きなかった。誰かを助けたわけでもない。
けれど、自然の圧倒的な精緻さと、生命の力強さを「知った」という充足感が、シャルロッテの胸を温かく満たしていた。
朝霧が晴れ、王城の一日が始まる。
シャルロッテは、足元の草花を踏まないように、いつもより少しだけ慎重に、そして優しく歩き出した。




