第四百五十六話「晩秋の梢と、黄金色の『待ち合わせ』」
その日の夕暮れ、王城の中庭にある樹齢三百年の「賢者の大樹」の下は、深い静寂と、冷たく澄んだ空気に包まれていた。
昨日の回廊での騒がしいダンスパーティーとは打って変わって、ここには時が止まったような静けさがある。
大樹の枝はすでに冬支度を終え、ほとんど裸になっていたが、たった一枚、枝の先端に、鮮やかな黄金色の葉がしがみついていた。
風が吹くたびに、その葉は心細げに震え、今にも散ってしまいそうだった。
大樹の根本には、老樹木医のジェペットが、心配そうにその葉を見上げていた。
「ふむ……。おかしい。他の葉はとっくに散り、根も眠りについているというのに。なぜあの一枚だけが、頑なに落ちるのを拒んでいるのじゃろう。これでは、木全体が完全に冬の眠りに入れない」
ジェペットにとって、それは植物学的な異常であり、木の健康を案じるべき事態だった。
そこに、シャルロッテがモフモフを抱いてやってきた。彼女は、厚手のウールのコートを着込み、白い息を吐いていた。
シャルロッテは、ジェペットの隣に立ち、同じようにその最後の一葉を見上げた。
「ねえ、ジェペットおじいさん。あの葉っぱさん、落ちたくないんじゃないよ。誰かを待っているんだよ」
「姫様、今なんとおっしゃいました? 待っている? 葉がですか?」
ジェペットは眉をひそめた。葉に意志などあるはずがない。それは風と重力の物理現象だ。
シャルロッテは、モフモフの背中を撫でながら、静かに言った。
「うん。あの葉っぱさんはね、秋の最後のアンカーなの。次にやってくる『冬の最初の使者』に、バトンを渡さないと、役目が終わらないって思っているの」
シャルロッテは、魔法で葉を落とすこともしなければ、無理に接着することもしなかった。
彼女はただ、光属性と風属性の魔法をごく微量、空気中に漂わせた。それは何かに干渉するためではなく、その場の空気を「舞台」として整えるための、静かな準備だった。
「私たちも一緒に待ってあげよう。きっと、もうすぐ来るから」
二人は、寒空の下、並んで空を見上げ続けた。
空の色が、茜色から群青色へ、そして深い藍色へと変わっていく。
星が一つ、また一つと瞬き始めた。
そして、その時が来た。
暗い空の彼方から、ひらり、と白いものが舞い降りてきた。
今年最初の、雪のひとひらだった。
雪片は、風のいたずらのような偶然で、あるいはシャルロッテの整えた空気の流れに導かれて、まっすぐにその黄金色の葉へと向かっていった。
チリン。
雪の冷たさが葉に触れた瞬間、まるで小さな鈴が鳴ったような音がした。
それは、「お疲れ様」という冬からの挨拶であり、「あとは任せて」という合図でもあった。
その瞬間、今までどんな強風にも耐えていた黄金色の葉が、自ら枝を離した。
葉は、雪片と空中で抱き合うように重なり、くるくるとワルツを踊りながら、ゆっくりと、本当にゆっくりと落ちてきた。
シャルロッテは、そっと手を差し出した。
葉は、地面に落ちて泥にまみれることなく、シャルロッテの手のひらの上に、ふわりと着地した。
手の中にあるのは、ただの枯れ葉ではない。雪の水分で少し湿った、秋の終わりの結晶だった。
「見て、ジェペットおじいさん。バトンタッチ、成功だよ」
ジェペットは、その光景を見て、老いた目じりを拭った。
彼が「異常」だと思っていた現象は、季節と季節が交わす、厳かで美しい儀式だったのだ。
大樹の方も、最後の葉が離れたことで、ふうっと安堵の吐息を漏らしたかのように、深い冬の眠りへと沈んでいった。
「……ああ、なんと美しい終わり方じゃ。わしは木を診ているつもりで、木の心を診ていなかったようですな」
シャルロッテは、黄金色の葉を、持っていた古い詩集の間に挟んだ。
「この葉っぱはね、『秋が楽しかった証拠』として、春までとっておくの」
一つの季節が終わり、次の季節が始まるという当たり前の出来事が、シャルロッテの視点を通すことで、かけがえのないドラマチックな名場面となったのだ。
雪が、少しずつ強くなってきた。
シャルロッテとジェペットは、白く染まり始めた中庭を、満ち足りた気持ちで後にした。




