第四百五十一話「六月の花束と、姫殿下の『意識の川』」
その日の朝、シャルロッテは、ふと、「お花を買いに行こう」と思った。
特に理由はない。ただ、窓から差し込む六月の光が、あまりにも鮮やかで、空気が絹のように柔らかかったからだ。そんな朝には、誰かのために花を買うという行為が、まるで呼吸をするのと同じくらい自然で、不可欠なことに思えたのだ。
「今日は、私が自分でお花を買うわ」
シャルロッテは、鏡の前で独りごちた。鏡の中の自分は、いつもの自分でありながら、どこか少しだけ違う、今日の光を纏った新しい自分に見えた。
彼女は、シンプルな白いドレスを選んだ。フリルもリボンも最小限に。今日は、飾るためではなく、感じるために外に出るのだから。
モフモフを抱き上げ、城門を出る。
城下町への道は、いつもの石畳だが、今日のシャルロッテには、すべての音が、別の意味を持って響いてきた。
馬車の車輪が石を削る音、遠くの教会の鐘の音、パン屋の煙突から昇る煙の匂い。それらすべてが、バラバラの断片ではなく、一つの大きな「生」の流れとして、彼女の意識の中を滑り落ちていく。
(ああ、世界は動いている。私がここで立ち止まっていても、時間は砂のように指の間をすり抜けていく。でも、その砂の一粒一粒が、こんなにも愛おしいのはなぜかしら)
彼女は歩きながら、すれ違う人々の顔を見た。
急ぎ足の商人は、きっと昨日の売上のことを考えている。ベンチに座る老人は、遠い昔の恋人のことを思い出しているのかもしれない。
それぞれの心の中に、誰にも見えない深い海がある。私たちは、その海の上で、小舟のようにすれ違っているだけなのだ。
(でも、時々、波が重なり合うことがあるわ。視線が合う瞬間、微笑みを交わす瞬間。その一瞬だけ、私たちは同じ海を見るの)
シャルロッテは、花屋の前に立った。
店先には、色とりどりの花が溢れていた。薔薇の情熱的な赤、百合の静寂な白、そしてデルフィニウムの憂鬱な青。
花屋の女主人は、忙しそうにハサミを動かしていた。彼女の指先は、緑色の茎を切り落とすたびに、小さな命の決断を下しているようだった。
「これはこれは、いらっしゃいませ、姫様。今日はどのようなお花を?」
シャルロッテは、花々を見つめた。
どれを選べばいいのだろう?
今日という日の、この瞬間の、私の心の形にぴったりと合う花はどれだろう?
(薔薇は強すぎるわ。私の心はもっと柔らかい。百合は静かすぎる。もっと、風に揺れるような……)
彼女の視線は、バケツの隅にある、淡い黄色のスイートピーに止まった。
その花びらは、蝶の羽根のように薄く、頼りなげで、しかし甘い香りを放っていた。それは、「過ぎ去る時間の儚さ」と「今ここにある喜び」を同時に表現しているように見えた。
「これをください。全部」
シャルロッテは、スイートピーの束を抱えた。
花束は、思ったよりも軽く、そして温かかった。花の命の重さが、腕の中に伝わってくる。
帰り道、彼女は、その花束を誰に渡そうかと考えた。
アルベルト兄様? 彼はきっと、論理的な美しさで喜んでくれるだろう。
フリードリヒ兄様? 彼は、花の繊細さに戸惑いながらも、顔を赤らめるだろう。
でも、違う。
今日は、特定の一人に贈るのではない。
(この花は、今日という日そのものへの贈り物なの。この光、この空気、そして私が感じている、この説明できない幸福感への)
シャルロッテは、王城の門をくぐり、庭園の噴水の縁に腰掛けた。
彼女は、スイートピーを一本ずつ、水面に浮かべ始めた。
黄色い花びらが、水面に波紋を描き、ゆっくりと流れていく。
「見て、モフモフ。時間が流れていくわ。花びらのように」
モフモフは、水面の花を目で追い、小さくあくびをした。彼にとっては、時間も花も、ただの心地よい風景の一部に過ぎないのだ。そして、それこそが真実なのかもしれない。
花をすべて浮かべ終えると、噴水は黄色い光の輪に包まれた。
シャルロッテは、空を見上げた。雲がゆっくりと形を変えていく。
(私は、ここにいる。過去でも未来でもなく、この瞬間の真ん中に。そして、世界はこんなにも美しい)
彼女の心の中を流れていた意識の川は、静かな海へと注ぎ込み、満たされた。
花を買って、水に浮かべただけのこの午後が、彼女の魂にとって、何よりも深く、鮮烈な記憶として刻まれたのだった。
「帰りましょう、モフモフ。エマが紅茶を淹れて待っているわ」
シャルロッテは立ち上がり、軽やかな足取りで薔薇の塔へと戻っていった。彼女のドレスの裾が、春の風に優しく揺れていた。




