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【TS幼女転生王族スローライフ】姫殿下(三女)は今日も幸せ♪ ~ふわふわドレスと優しい家族に囲まれて★~  作者: 霧崎薫


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第四百五十話「午後の井戸と、完璧に茹で上げられた『天使の髪』」

 その日の午後、王城の空気は、まるで水槽の底に沈んだように静まり返っていた。十一月の雨が、音もなく降り続いていたからだ。それは激しい雨ではなく、世界を濡らすためだけに存在する、細かい霧のような雨だった。


 シャルロッテは、王城の第三厨房の片隅にいた。そこは普段あまり使われない場所で、古びた銅鍋や、今はもう誰も名前を覚えていないスパイスの瓶が並んでいる。


 彼女は、パスタを茹でていた。


 ただのパスタではない。「天使の髪(カペッリーニ)」と呼ばれる、極細のパスタだ。


 彼女は、鍋の中で沸騰する湯をじっと見つめていた。湯気は換気口に向かって、まっすぐに吸い込まれていく。


「ねえ、モフモフ。パスタを茹でるのに一番大切なことは何だと思う?」


 モフモフは、冷蔵庫の上で丸くなり、哲学的な顔つきで虚空を見つめていた。彼は何も答えなかった。おそらく、シャルロッテの問いかけについて考えているか、あるいは単に眠いだけかもしれない。


「それはね、孤独であることだよ」


 シャルロッテは独りごちた。


 彼女は、正確な時間を測っていた。砂時計の砂が落ちきるまでの三分間。その間、彼女は世界から切り離される。王女としての義務も、魔法の才能も、兄姉たちの喧騒も、ここにはない。あるのは、湯と塩と小麦粉の細い束だけだ。


 砂時計の最後の粒が落ちた瞬間、彼女は鍋を火から下ろした。


 湯切りの音。ザルにあげられたパスタは、完璧なアルデンテだった。


 彼女はそれを、オリーブオイルと少量の岩塩、そして庭で摘んだばかりのバジルだけで和えた。

 シンプルで、無駄がなく、そして完璧な料理。


 その時、どこからか電話のベルのような音が聞こえた。

 もちろん、この世界に電話はない。それは、遠い記憶の中の音か、あるいは「世界の裂け目」が鳴らした合図かもしれない。


 シャルロッテは皿を持って、厨房の裏口から外に出た。

 雨は止んでいたが、空はまだ重い鉛色をしていた。

 彼女が向かったのは、庭園の最も奥深くにある、枯れた古井戸だった。

 そこは、誰も近づかない場所だ。石組みは苔むし、底は見えない。


 シャルロッテは、井戸の縁に腰掛けた。


 井戸の底からは、ひんやりとした風が吹き上げてくる。それは、何百年も前の時間の匂いがした。


「そこにいるの?」


 シャルロッテは井戸の底に向かって声をかけた。

 返事はなかった。しかし、気配はあった。

 そこには、「影をなくした男」か、あるいは「羊の服を着た何か」が潜んでいるような、濃密な気配が漂っていた。


 シャルロッテは、フォークでパスタを巻き取った。

 一口食べる。

 小麦の香りと、オリーブの風味が、口の中に広がる。それは、確かな現実の味がした。


「世界はね、二つの種類に分かれているの」


 彼女は、井戸の闇に向かって語りかけた。


「美味しいパスタを食べる人と、そうでない人。私は、食べる人でありたいと思う」


 井戸の底から、微かな音がした。

 それは、小石が転がるような音だったかもしれないし、誰かがページをめくる音だったかもしれない。


 ふと、シャルロッテの隣に、誰かが座っているような気がした。

 見ると、そこには半透明の、灰色のコートを着た「誰か」がいた。顔は見えない。ただ、そこに「存在の欠落」としての誰かがいた。


「パスタは好き?」とシャルロッテは尋ねた。


 灰色の影は、肩をすくめたように見えた。


「僕には胃袋がないんだ。だから、味を想像することしかできない」


 影の声は、雨音のように静かだった。


「想像する味は、実際の味よりも美味しいの?」

「場合によるね。記憶の中の雨が、実際の雨よりも濡れないのと同じだよ」


 シャルロッテは頷いた。それは、とても納得のいく答えだった。

 二人はしばらくの間、並んで座り、雲が流れるのを見ていた。

 何も解決すべき問題はなかった。世界は危機に瀕していないし、誰も泣いていない。ただ、時間がゆっくりと、水飴のように流れていくだけだ。


「そろそろ行くよ」と影が言った。


「どこへ?」


「ここではないどこかへ。あるいは、象の消滅した平原へ」


 影は立ち上がり、井戸の中へと音もなく滑り落ちていった。

 シャルロッテは、井戸の中を覗き込んだが、そこにはただ深い闇があるだけだった。


 皿の上には、パスタが一本だけ残っていた。

 シャルロッテはそれを食べた。

 完璧な食事だった。


 彼女が厨房に戻ると、モフモフはまだ同じ姿勢で虚空を見つめていた。

 世界は何一つ変わっていないように見えた。

 しかし、シャルロッテの中では、何かがほんの少しだけ移動していた。それは、本棚の順番を並べ替えた時のような、微細だが決定的な変化だった。


「ふふふ」

 シャルロッテは小さく笑った。

「午後のパスタは、いつだって少しだけ寂しい味がするわね」


 彼女は皿を洗い、丁寧に拭いて、元の棚に戻した。


 窓の外では、再び雨が降り始めていた。それは、世界の輪郭を優しく、曖昧に溶かしていくような雨だった。

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