第四百四十九話「静かの海への上昇と、姫殿下の『小さな一歩』」
その日の深夜、王城の最も高い尖塔の屋上は、かつてない緊張感と、知的な熱気に包まれていた。
マリアンネ王女は、数名の魔導士たちを指揮し、複雑な魔導計器が並ぶデスク――「管制センター」の前に座っていた。彼女の表情は、いつもの研究者としての顔ではなく、未踏の領域に挑む司令官のそれだった。
「魔力充填率、九十八パーセント。風向、北北西。大気の揺らぎ、許容範囲内。……すべてのシステム、正常」
マリアンネの声が、静かな夜気に響く。
塔の中央には、銀色の輝きを放つ、球形のゴンドラが鎮座していた。名付けて「アポロ・モフ号」。
その中には、特製の白い防寒服に身を包んだシャルロッテと、同じく白い頭巾をかぶったモフモフが乗り込んでいた。
これは、「お月様に、手は届くのか」という、シャルロッテの純粋な疑問に答えるためだけに計画された、王城史上最大のプロジェクトだった。
「シャル。聞こえる? 通信感度は良好よ」
マリアンネが、通信用の魔石を通じて語りかける。
「うん、お姉様。こっちは準備万端だよ。モフモフも、尻尾を振って『準備よし』って言ってる!」
シャルロッテの声には、恐怖はなく、冒険への純粋な期待だけがあった。
「了解。では、上昇を開始するわ。カウントダウン開始。十、九、八……」
周囲の魔導士たちが息を飲む。
「……三、二、一。リフト・オフ(上昇開始)!」
ゴンドラの下部に設置された重力制御魔法陣が、淡い青色の光を噴出した。ゴンドラは音もなく、しかし力強く、夜空へと浮き上がった。
物理的な推進力ではなく、純粋な魔力の反発力によって、シャルロッテたちは大地を離れた。
ぐんぐんと遠ざかる王城。
窓から見える景色は、見慣れた庭園から、城下町の灯り、そして国土全体の輪郭へと変わっていく。
高度が上がるにつれ、空気は薄く、冷たくなっていくが、マリアンネの設計した生命維持結界が、二人を完璧に守っていた。
「高度三千フィートを通過。第一魔力ブースター、切り離し」
マリアンネの冷静な声が届く。
ゴンドラは軽くなり、さらに加速した。雲を突き抜け、星々が瞬く、成層圏に近い領域へと突入する。
「わあ……。お姉様、空の色が、黒くなってきたよ。星が、宝石みたいに動かないの」
「ええ、シャル。そこは『静寂の海』の入り口よ。そのまま、月を目指して」
やがて、ゴンドラは上昇を停止した。
そこは、鳥さえも飛ばない、絶対的な静寂の世界だった。
頭上には、巨大な満月が、手を伸ばせば届きそうなほどの迫力で鎮座している。月面のクレーターの一つ一つが、肉眼で鮮明に見えた。
シャルロッテは、ゴンドラのハッチを開けた。
結界の内側には空気があるが、外側は真空に近い、音のない世界だ。
彼女は、安全ロープを腰に巻き、モフモフを抱きかかえながら、ゴンドラの縁に立った。足元には、遥か彼方に霞む大地があるだけだ。
シャルロッテは、ゆっくりと、虚空へと足を伸ばした。
そこには地面はない。しかし、マリアンネが展開した「光の足場」が、彼女の体重を支えた。
彼女は、月光に満ちた虚空に、最初の一歩を踏み出した。
「……お姉様。聞こえる?」
「ええ、聞こえているわ。どう? そこの景色は」
シャルロッテは、目の前に広がる圧倒的な蒼白の世界と、絶対的な孤独の美しさに、言葉を選んだ。
「ここは、とっても静か。……世界中の音が、全部眠っている場所みたい」
そして、彼女はモフモフを、光の足場の上に降ろした。モフモフは、無重力に近い感覚に戸惑いながらも、ふわふわと跳ねるように歩いた。
シャルロッテは、ポケットから、王家の紋章が刺繍された小さなハンカチを取り出した。そして、それを、見えない空気の壁に貼り付けるようにして、掲げた。
「これは、一人の女の子にとっては小さな一歩だけど……」
彼女は、満月に向かって、にこっと笑った。
「モフモフにとっては、とっても大きなジャンプだよ!」
通信機越しに、地上の管制センターから、ワッと歓声が上がったのが聞こえた。アルベルト王子も、フリードリヒ王子も、そして国王夫妻も、固唾を飲んでその声を聞いていたのだ。
彼らは、何かを得たわけではない。領土を広げたわけでもない。
ただ、あんなにも遠く、高い場所に、愛する家族が到達し、そして笑っているという事実。その「達成」そのものに、熱狂していた。
シャルロッテは、月の光を全身に浴びながら、しばらくの間、その「壮大な孤独」を味わった。
そこには、日々の小さないざこざも、悩みも存在しない。ただ、圧倒的な宇宙と、自分たちの存在があるだけだった。
「……そろそろ帰還しましょう。酸素残量が規定値よ」
「わかったわ、お姉様。お土産に、月の光をポケットに詰めていくね」
帰還の降下は、上昇よりも静かだった。
王城の屋上に着陸した時、ハッチから出てきたシャルロッテとモフモフは、冷たい夜気と、家族の温かい抱擁に包まれた。
シャルロッテの髪には、成層圏の氷の粒が、星屑のようにキラキラと残っていた。
「どうだった、シャル?」と父王が尋ねる。
「うん。お月様はね、とっても冷たくて、でも、すごく優しく私たちを見ていたよ」
その夜、王城の人々は空を見上げた。
月はいつもと同じように輝いていたが、人々にとっては、もはや「遠い天体」ではなかった。そこは、彼らの姫君が、小さな足跡(とモフモフの肉球の跡)を残してきた、手の届く「冒険の場所」に変わっていたのだ。
「えへへ。だって人類にとって大きな一歩より、わたしとモフモフのお散歩の跡のほうが絶対可愛いもん!」




