第四百四十八話「ヴィオレット色の雷雲の進軍と、姫殿下の『切り抜かれた花園の防衛戦』」
その日の午後、王城の上空には、今まで誰も見たことのないような、不穏で美しい空が広がっていた。
雲は、毒々しいほどの黄色と、深海のような紫色の渦を巻き、まるで悪意を持った巨大な軍隊の行進のように、東の空からゆっくりと、しかし確実に迫ってきていた。
魔法気象予報士たちは、計器の針が振り切れるのを見て、口々に叫んだ。
「これは、百年ごとの大嵐『グラン・ストーム』だ! 窓を閉めろ! 鎧戸を下ろせ!」
王城は、嵐への備えで騒然となった。風はまだ吹いていないが、空気は湿った重圧感に満ち、鳥たちは鳴くのをやめ、世界は息を止めていた。
しかし、シャルロッテは、モフモフを抱き、庭園の真ん中に立っていた。彼女は、避難しようとはしなかった。
彼女の瞳には、迫りくる紫色の雷雲が、自然現象ではなく、「キャンバスの余白を塗りつぶそうとする、乱暴なインクの染み」として映っていた。
「ねえ、モフモフ。あのお空、描き方が雑だね。せっかくの青いお空のキャンバスが、汚されちゃいそうだよ」
シャルロッテは、自分の庭園を守るために、「配置」を変えることにした。
彼女は、庭園に咲く背の高いヒマワリや、鮮やかなコスモスの花々に向かって、手を広げた。
そして、光属性と変化魔法を、極めて特殊な「平面的」なイメージで発動させた。
「みんな! ペラペラになって、手を繋いで!」
その瞬間、庭園の光景が変質した。
花々は、立体的な奥行きを失い、まるで雑誌から切り抜かれた美しい挿絵のように、鮮やかで、輪郭のくっきりとした「平面の板」になった。
そして、それらの「切り抜かれた花々」は、シャルロッテの指揮に従い、嵐が来る方向に向かって、横一列に、パノラマのように整列した。それは、現実の物理法則を無視した、巨大なコラージュの壁だった。
ゴゴゴゴゴ……。
紫色の雷雲が、王城の真上に到達し、轟音と共に、最初の稲妻を落とした。
通常ならば、木々は裂け、花は散るはずだった。
しかし、稲妻は、シャルロッテが配置した「ヒマワリの壁」に当たると、まるで絵の具が弾かれるように、パチンと音を立てて、無害な黄色の光の粒となって霧散した。
現実の雷は、平面的な「絵画の論理」には干渉できなかったのだ。
嵐は怒り、風を吹かせた。
だが、シャルロッテの庭園は、絵画の中に封じ込められた永遠の午後だった。風は、切り抜かれた花々の隙間をすり抜けるだけで、花びら一枚揺らすことができない。
「だめだよ、嵐さん。ここはね、私たちの遊び場なの。暗い色は、入れないよ」
シャルロッテは、空に向かって、見えない巨大な筆を振るった。
彼女は、嵐の紫色の雲の上に、光属性魔法で、さらに鮮やかな「水色の雲」や「金色の蝶」を、上書きして描いていった。
空は、現実の気象現象と、シャルロッテの描く「空想の風景」が混ざり合い、シュールレアリスムの絵画のように、極彩色に歪み始めた。
嵐の「恐怖」という属性は、シャルロッテの「無垢な色彩」によって、ただの背景美術へと格下げされた。
やがて、雷雲は、自分が「場違いな絵の具」であることを悟ったかのように、急速に色を失い、透明な雨となって降り注いだ。
その雨さえも、地面に落ちる前に、シャルロッテの魔法で、きらきら光るガラスのビーズへと変わった。
王城の窓から、恐る恐る外を覗いていたアルベルト王子やフリードリヒ王子は、庭園に広がる信じがたい光景に、言葉を失った。
そこには、嵐の痕跡はなかった。
あるのは、現実よりも鮮やかすぎる色彩で固定された、切り絵のような花々と、その中心で、ガラスの雨粒を拾って遊ぶ、銀髪の少女の姿だけだった。
アルベルトは、眼鏡の位置を直し、呟いた。
「……これは、魔法なのか? いや、シャルロッテは、世界そのものを『自分の画集』の1ページに変えてしまったようだ。現実が、彼女の想像力に降伏したのだ」
シャルロッテは、拾ったガラスのビーズを、モフモフの首輪に飾った。
「えへへ。嵐さんも、最後は綺麗な色を置いていってくれたね。これで、このページの絵は完成だよ! やっぱり暗い色より綺麗な色の方が絶対可愛いもん!」
その日の夕方、王城の庭園は、現実味を欠くほど美しく、静謐な、一枚の巨大な絵画の中に閉じ込められていたのだった。




