第四百四十六話「霧の夜の渡り人と、姫殿下の『開かれた門』」
それは、エルデンベルク王国に古くから伝わる、「星隠れの夜」のことでした。
一年に一度、月も星も分厚い霧に隠れ、世界から音が消える夜。古老たちは、「この夜は、決して戸を開けてはならない。森の奥から『渡り人』たちがやってくるからだ」と、子供たちに言い聞かせていました。
その夜、王城は深い霧の底に沈んでいました。
城壁の松明は湿気で燻り、見張りの兵士たちも、冷たい霧の感触に身震いし、詰所の中で息を潜めていました。
しかし、薔薇の塔の最上階だけは違いました。
シャルロッテは、眠らずに窓辺に立ち、モフモフを抱いて、乳白色の闇を見つめていました。彼女の翠緑の瞳は、恐怖ではなく、静かな予感に満ちていました。
「ねえ、モフモフ。ほら、来るよ。森の奥から、懐かしい匂いの風が吹いている」
モフモフは、喉を鳴らすのを止め、耳をピンと立てて、窓の外の虚空を見つめ返しました。彼は、野生の本能で、人間には感じ取れない気配を捉えていたのです。
深夜二時。
城の正門の前で、異変が起きました。
霧の奥から、シャン、シャン、と、鈴のような、あるいは氷が触れ合うような、涼やかな音が近づいてきたのです。
警備隊長のフリードリヒ王子は、緊張して剣の柄に手をかけました。
「何者だ! 名乗れ! この霧に乗じて城に近づくとは!」
しかし、霧の中から現れたのは、軍隊でも盗賊でもありませんでした。
それは、淡く青白い燐光を放つ、無数の動物たちの行進でした。
先頭を行くのは、角に無数の小さな光を灯した、巨大な牡鹿。
その後ろには、銀色の毛並みを持つ狼たち、透き通るような翼のフクロウ、そして足音を立てない猪たちが続いていました。彼らは、城壁など存在しないかのように、まっすぐ正門に向かって歩いてきます。
「これは……『精霊の渡り』か!? いかん、城内に入れてはならん! 魔力が暴走するぞ!」
フリードリヒが叫び、門を固く閉ざそうとしたその時です。
頭上から、鈴を転がすような声が降ってきました。
「開けてあげて、兄様。通せんぼは、だめだよ」
見上げると、城壁の上に、夜着の上にガウンを羽織ったシャルロッテが立っていました。風もないのに、彼女の銀髪がふわりと舞っています。
「シャル! 何を言っている! これは伝説にある『あちら側』の存在だ。関わってはいけない!」
「ううん。彼らはね、ただ『通りたい』だけなの。ここは王城が建つずっと前からある、彼らの通り道なんだよ」
シャルロッテは、城壁の上から、そっと手を差し伸べました。
彼女は魔法を使いませんでした。ただ、心の中で、「どうぞ」と念じながら、正門の留め具を外すように、フリードリヒに目で合図を送りました。
フリードリヒは、妹の瞳の静けさに気圧され、無意識のうちに門を開け放ちました。
ギィィィ……と、重い音を立てて門が開くと、青白い燐光を放つ動物たちは、人間たちに目もくれず、静かに城内へと入ってきました。
彼らは、石畳の上を歩いているようで、実は数センチ浮いているようでした。
牡鹿が、シャルロッテのいる城壁の下で、一度だけ足を止めました。
そして、静かに頭を下げました。
その角の光が、一瞬だけ強まり、シャルロッテの顔を照らしました。それは挨拶であり、感謝であり、そして「我々は去り行くものだ」という別れの合図でもありました。
シャルロッテもまた、スカートの裾をつまみ、優雅にカーテシーを返しました。
モフモフも、牡鹿に向かって、短く、威厳のある声で「ガウ」と挨拶しました。それは、現世の獣と、幽世の獣との、一瞬の交感でした。
行列は、王城の中庭を横切り、反対側の裏門へと抜けていきました。
彼らが通った後には、霧が晴れ、地面には見たこともないような、小さな水晶の花がいくつも咲いていました。
最後の一匹、小さな狐の精霊が通り過ぎ、裏門の闇に消えると、世界には再び、いつもの虫の声と風の音が戻ってきました。
フリードリヒは、呆然としながらも剣を収めました。
「俺は……夢を見ていたのか? それとも、神話の中にいたのか?」
シャルロッテは、城壁から降りてきて、兄の手を握りました。
「夢じゃないよ、兄様。彼らはね、春を運んできたんだよ」
シャルロッテが指さした先、行列が通り過ぎた中庭の木々は、真冬であるにもかかわらず、一斉に小さなつぼみを膨らませていました。
「渡り人」たちは、季節を循環させるための、古い自然の運び手だったのです。
翌朝、王城の人々は、中庭に咲いた水晶の花と、膨らんだつぼみを見て、「昨夜は、良い精霊が通ったのだ」と噂し合いました。
しかし、門を開け放ち、彼らと静かな挨拶を交わしたのが、幼い王女であったことは、誰も知りません。それは、霧の夜だけの、静かで厳かな秘密でした。
シャルロッテは、窓辺で水晶の花を一輪、花瓶に挿しました。
それは、魔法で生み出したものではなく、ただ世界の不思議を「通してあげた」ことへの、ささやかなお礼だったのです。
「えへへ。だって通せんぼより、愛がある春の挨拶の方が絶対可愛いもん!」




