第四百四十五話「王様の空咳と、臣下たちの『深読み大騒動』」
その日の午後、王城の円卓会議室は、針が落ちても聞こえるほどの静寂……いや、張り詰めた空気に満ちていました。
議題は「王国の晩餐会における、最初の乾杯の銘柄を何にするか」という、平和ボケした、しかし貴族たちにとっては死活問題に等しい案件でした。
ルードヴィヒ国王は、玉座に深く腰掛け、眉間に皺を寄せ、腕を組み、沈黙を守っていました。
その沈黙が長引くほど、周囲の側近たちの緊張は高まります。
その時です。
国王の口から、短く、しかし重々しい音が漏れました。
「……オホン」
たった一言、咳払いでした。
しかし、この「オホン」が、王城始まって以来の珍騒動の幕開けとなったのです。
◆
まず反応したのは、深読みの天才、第一王子アルベルトでした。
彼は眼鏡をクイッと押し上げ、戦慄しました。
「(『オホン』……? 父上は今、『本』とおっしゃったのか? 乾杯の酒の銘柄の議論中に『本』……。つまり、『歴史書を紐解け』という暗黙の指示か! 過去の判例に基づき、最も伝統的な赤ワインを選べという、王の厳格な意志の表れだ!)」
アルベルトは立ち上がり、叫びました。
「皆の者! 父上の意図は『伝統への回帰』だ! 直ちに地下書庫から、創業百年の『古文書ワイン』を持って参れ!」
次に反応したのは、血気盛んな第二王子フリードリヒでした。
彼は机をバンと叩きました。
「(兄上は甘い! あの力強い『オ・ホン』の響き……あれは『大砲』の隠語に違いない! 父上は、軟弱な議論に飽き飽きして、『祝砲のような刺激的な酒を持ってこい』と仰っているんだ!)」
フリードリヒは叫びました。
「違うぞ兄上! 父上が求めているのは『衝撃』だ! 度数九十度の『火薬スピリッツ』を樽で持ってこい!」
さらに、マリアンネ王女がブツブツと計算を始めました。
「(音階で言うと『ソ』のシャープ……。周波数から分析するに、父上は『保温』を求めているわ。つまり、冷たいお酒ではなく、ホットワインをご所望なのよ!)」
マリアンネは叫びました。
「科学班! 直ちに鍋とスパイスを用意して! 温度は六十二度で!」
会議室は、一瞬にして戦場と化しました。
「古文書だ!」「火薬だ!」「鍋だ!」と怒号が飛び交い、使用人たちは右往左往。オスカー執事に至っては、「オホン……お盆……ああ、新しいお盆を買えというご命令ですね!」と、全く見当違いな方向に走り出そうとしています。
◆
その喧騒の渦中、シャルロッテはモフモフを抱き、ポカンと口を開けてその様子を見ていました。
彼女の目には、大人たちが、ただの「咳払い」一つで、勝手に踊り狂っているようにしか見えませんでした。魔法を使うまでもありません。
シャルロッテは、トコトコと玉座に歩み寄りました。
そして、まだ眉間に皺を寄せている国王の袖を、クイッと引っ張りました。
「ねえ、パパ」
「おお、シャルか。どうした、皆が急に騒がしくなったが」
国王は、目の前の大騒動の理由がわからず、キョトンとしています。
シャルロッテは、自分のポケットから、小さな包みを取り出しました。
「パパ。さっき食べたクッキー、喉に詰まったんでしょう?」
シャルロッテは、国王にコップ一杯の水を差し出しました。
国王は、「ああ!」という顔をして、その水を一気に飲み干しました。
ゴク、ゴク、プハーッ。
「……ふぅ。助かったよ、シャル。会議前にこっそりつまみ食いした乾パンが、喉の奥に張り付いていてな。苦しくて声が出せなかったのだ。こんなこと誰にも言えないからな」
◆
その瞬間、会議室の喧騒が、ピタリと止まりました。
古文書を抱えたアルベルト、酒樽を担いだフリードリヒ、温度計を振り回すマリアンネ、そしてカタログ雑誌を開いたオスカー。
全員が、石像のように固まり、国王を見つめました。
国王は、きょとんとした顔で言いました。
「して、皆の者。なぜそんな大荷物を持っているのだ? 余はただ、水が欲しかっただけなのだが」
全員が、ズコッ! と盛大にずっこけました。
その音は、どんな祝砲よりも大きく、王城に響き渡ったとか。
シャルロッテは、モフモフを抱きしめ、ケラケラと笑いました。
「あはは! 大人の人たちって、簡単なことを難しくするのが、本当に上手だね!」
その日の晩餐会。
乾杯の飲み物は、誰の意見でもなく、シャルロッテの提案で「喉に詰まらない、滑らかな桃のジュース」に決まりました。
それが一番、平和で、安全で、そして甘い味がしたからです。
「えへへ。だって喉をやく火酒より、魂を潤すジュースの方が絶対可愛いもん!」




