第四百四十二話「退屈な待合室と、姫殿下の『心変わりの回転術』」
その日の午後、王城の西の塔にある「待合室」は、世界で最も重く、粘り気のある空気に満ちていた。そこは、王への謁見を待つ人々が過ごす部屋だが、今日の午後は誰も訪れる予定がなく、ただ若い書記官のセーレンだけが、インクの補充という単調な任務のためにそこにいた。
セーレンは、羽ペンを置き、窓の外の動かない雲を見つめていた。彼は、聡明だが憂鬱な青年で、「退屈」という名の悪魔に魂を蝕まれていた。
「ああ……。昨日と同じ今日。今日と同じ明日。この繰り返される日常の『反復』には、なんの意味があるのだろう。退屈だ。退屈こそが、人間の諸悪の根源だ」
彼は、世界が色あせて見える病に罹っていた。新しいことが何も起きない世界で、彼は窒息しそうだった。
そこに、シャルロッテが、モフモフを抱いて、ふらりと入ってきた。彼女は、別に用事があったわけではない。ただ、その部屋の「極まった退屈さ」の匂いに惹かれてやってきたのだ。
「ねえ、セーレンお兄さん。ここ、すごく静かだね。時間が止まっているみたい」
セーレンは、力なく微笑んだ。
「ええ、姫殿下。ここでは何も起きません。壁のホコリ一つ動きません。この退屈は、私を絶望させます」
シャルロッテは、セーレンの隣の長椅子に座り、足をぶらぶらさせた。
彼女は、魔法を使って何か面白いものを出現させることもできた。花火を上げたり、壁のシミを踊らせたりすることもできた。
しかし、彼女はそうしなかった。今日は、退屈そのものと遊ぶことにしたのだ。
「ねえ、お兄さん。退屈なのはね、世界がつまらないからじゃないよ。私たちが、世界を『真面目に見すぎている』からだよ」
シャルロッテは、哲学的な遊戯を提案した。
「今から、『心変わりの回転術』をしようよ!」
「回転術? ダンスですか?」
「ううん。体を回すんじゃなくて、心の『見方』をくるっと回すの。目の前のものを、わざと間違って、自分勝手に面白く見ちゃう遊びだよ!」
シャルロッテは、壁にかかっている古びた肖像画を指さした。それは、三代前の髭を生やした厳格な大臣の絵だ。
普通に見れば、ただの威厳ある絵だ。だから退屈なのだ。
「あのおじいさんはね、大臣じゃないよ。実は『髭の中に、迷子の小鳥を隠している、優しい泥棒さん』なの!」
シャルロッテがそう断言した瞬間、セーレンの目の中で、肖像画の意味が反転した。
厳格な髭の膨らみが、急に怪しく、そして愛らしく見えてくる。威厳ある表情は、「小鳥が見つからないかヒヤヒヤしている緊張顔」に見えてくる。
「……ぷっ。なるほど。確かに、そう思い込むと、あのしかめっ面が滑稽に見えてきます」
「でしょ? 次はあれ!」
シャルロッテは、床に置かれた真鍮の火掻き棒を指さした。
「あれは、火掻き棒じゃないよ。あれは、『巨人が落としていった、耳かき』だよ!」
「巨人の耳かき……! そう言われると、あの先端のカーブが、妙に生々しく見えてくる……!」
セーレンの灰色の脳細胞に、鮮やかな「恣意的な解釈」の火花が散った。
彼は、シャルロッテの遊びを理解した。
世界を変える必要はない。自分が、勝手に、自由に、デタラメに世界を解釈すれば、退屈な現実は一瞬で崩壊し、豊かな主観の世界が現れるのだ。これが「主体性」という魔法だ。
セーレンも、恐る恐る参加した。彼は、窓の外の動かない雲を指さした。
「あの雲は……ただの水蒸気ではありません。あれは、『空の上が散らかっているので、神様が急いで隠した、洗濯物の山』です!」
シャルロッテは手を叩いて喜んだ。
「そうそう! だからあんなにモクモクしているのね! 神様も、お片付けが苦手なんだ!」
二人の遊びは加速した。
インク壺は「夜の闇を煮詰めたジャム」。
カーテンの揺れは「恥ずかしがり屋の幽霊のダンス」。
時計の秒針の音は「時間が、足をタプタプさせて、焦っている音」。
ただの退屈な待合室が、魔法を一つも使っていないのに、冒険と秘密に満ちたワンダーランドへと変わっていった。壁のシミ一つでさえ、「世界地図の書き損じ」として、二人の想像力を刺激した。
気がつくと、夕暮れの鐘が鳴っていた。
セーレンは、お腹を抱えて笑っていた。彼の憂鬱な顔は、どこにもなかった。
「ははは! 姫殿下、私は間違っていました。世界は退屈なのではなく、私が、世界を『正しく見よう』としすぎていたのですね。自分勝手に面白がる情熱があれば、インク壺一つで、一生遊べる!」
「うん! 自分が楽しいって思えば、それが本当のことなんだよ!」
シャルロッテは、モフモフを抱き上げて、最後に言った。
「ねえ、モフモフ。今日は魔法を使わなかったけど、魔法を使ったときよりも、世界がキラキラして見えたね」
モフモフは、「ミィ」と鳴いて同意した。彼には最初から、シャルロッテの主観こそが、世界の真実だとわかっていたからだ。
セーレンは、書きかけの書類に向き直った。もはや、それは単なる事務作業ではなかった。「インクという夜のジャムを、紙という白銀の平原に塗り広げる、甘美な儀式」だった。
その日の夕暮れ、王城の待合室は、何も変わっていないのに、すべてが変わっていた。シャルロッテの哲学は、「退屈からの脱出は、場所の移動ではなく、心の回転によって成される」という、静かで愉快な真理を残したのだった。




