第四百四十話「琥珀色の瞳の合図と、騎士団長の『敗北宣言』」
その日の午後、王城の談話室は、異様な緊張感……というよりは、静かな「睨み合い」の空気に支配されていた。
第二王子フリードリヒは、ソファに座り、テーブルの上に鎮座するモフモフと、至近距離で視線を交錯させていた。
フリードリヒは、騎士団長としての威厳を保ち、瞬き一つせず、真剣な眼差しを向けている。対するモフモフもまた、琥珀色の瞳を大きく見開き、微動だにせず王子を見つめ返していた。
その様子を、アルベルト王子とマリアンネ王女が、離れた場所から興味深そうに観察していた。
「……長いな。もう十分以上、彼らは見つめ合っている」
「ええ。兄様の集中力は見事だけれど、モフモフの持久力も驚異的ね。これは、種族を超えた『意志の力』の対決かしら?」
ついに、フリードリヒが額に汗を浮かべ、大きく息を吐いて背もたれに倒れ込んだ。
「くっ……! 強い! 俺がこれほど真剣に『魂の対話』を求めて見つめているのに、こいつは一歩も引かない! これほどの気迫、さすがはシャルが選んだ相棒だ!」
フリードリヒは、モフモフの態度を「戦士としての不屈の闘志」と解釈し、勝手に感銘を受けていた。
しかし、モフモフの方は、どこか居心地が悪そうで、尻尾をパタンパタンと床に打ち付け、耳を少し伏せていた。
そこへ、シャルロッテが、おやつのクッキーを持って入ってきた。
「あら? フリードリヒ兄様、モフモフと喧嘩してるの?」
「いや、違うぞシャル。俺は、こいつと男同士の信頼を深めようと、目を見て対話していたんだ。だが、こいつはいっこうに俺に心を開こうとしない」
シャルロッテは、兄の言葉とモフモフの様子を見て、すぐに「あること」に気がついた。彼女の前世の記憶にある、動物学の豆知識が頭をよぎったのだ。
「あはは! 兄様、それは逆だよ。兄様が、モフモフに『決闘』を申し込んでいたんだよ」
「な、何だと!?」
フリードリヒは飛び上がった。
シャルロッテは、クッキーの皿を置き、得意げに指を立てた。
「あのね、猫さんや、モフモフとって、じーっと目を見つめるのは、『やる気か? かかってこい!』っていう、威嚇のサインなんだよ。だからモフモフは、『負けないぞ!』って頑張って睨み返して、警戒していたの」
「な、なんと……! 俺の熱い視線は、愛ではなく、ただの喧嘩腰だったというのか……!」
騎士としての礼節を重んじるフリードリヒは、無知ゆえの非礼に顔面蒼白になった。
「じゃあ、どうすればいいんだ? 俺は、こいつと仲良くしたいだけなんだ」
シャルロッテは、にっこりと笑って、簡単な魔法……ではなく、ただの仕草を教えた。
「簡単だよ。『ゆっくりまばたき』をするの」
「ゆっくりまばたき?」
シャルロッテは説明した。
「動物の世界ではね、目をそらしたり、ゆっくり目を閉じたりするのは、『私はあなたを襲いません、安心して』っていう、大好きの合図なんだよ。そして鼻を近づけてあいさつするの。これを『猫のキス』って言うんだって!」
「猫の……キス……」
その場にいた全員が、その意外な事実に感嘆の声を漏らした。
マリアンネ王女が眼鏡の位置を直しながら頷いた。
「なるほど。視覚情報の遮断を意図的に行うことで、敵意の不在を証明する行動原理ね。理に適っているわ」
「よし、やってみよう」
フリードリヒは居住まいを正した。彼は再びモフモフに向き合ったが、今度は険しい顔つきを解き、リラックスしようと努めた。
彼は、ゆっくりと、極めて大げさに、目を閉じた。一秒、二秒、三秒。そして、ゆっくりと開けた。
それは、傍から見れば、強面の騎士が、ぬいぐるみに向かって眠そうな顔をしているだけの、実に滑稽で愛らしい光景だった。
しかし、効果は劇的だった。
それまで警戒して体を硬くしていたモフモフが、フリードリヒの「ゆっくりまばたき」を見た瞬間、ふっと体の力を抜いたのだ。
そして、モフモフもまた、琥珀色の瞳を細め、ゆっくり、とろりとまばたきを返した。
「見えたか、シャル!? 今、こいつが、俺に返事をしたぞ!」
フリードリヒは、大興奮で小声で叫んだ。
「うん! 『わかった、もう怖くないよ』って言ってるんだよ」
それからというもの、談話室は奇妙な「まばたき合戦」の場と化した。
アルベルト王子も、書類の手を止めて、モフモフに向かって優雅にゆっくりとまばたきをした。モフモフは、それにも律儀にまばたきで返した。
マリアンネ王女も、観察の合間に、パチクリとゆっくりまばたきをした。
言葉も、魔法も必要なかった。
ただ、「ゆっくり目を閉じる」という、人間にとっては無防備な動作が、ここでは「あなたを信頼しています」という、世界共通の愛の言語となっていたのだ。
シャルロッテは、そんな家族とモフモフの様子を見て、自分も目を細めた。
「ふふふ。みんなが眠そうな顔をして見つめ合っているのって、なんだか平和で、とっても可愛いね」
その日の午後の王城は、何か大きな事件が解決されたわけでも、すごい魔法が使われたわけでもなかった。
ただ、「目を見つめない」という逆説的なマナーが、種族を超えた温かい信頼を生み出し、部屋中をのんびりとした幸福感で満たしていただけだった。




