第四百三十七話「巨木の深呼吸と、姫殿下が聴く『大地の心音』」
その日の朝、エルデンベルク王国は、分厚い灰色の雲に覆われていた。昨夜のパジャマパーティーの華やかな余韻とは対照的に、世界は重く、湿った静寂に沈んでいる。
やがて、ポツリ、ポツリと雨が降り始め、それはすぐに、世界を洗い流すような激しい豪雨へと変わった。
王城の人々は、慌てて窓を閉ざし、屋内の乾いた場所に逃げ込んだ。しかし、シャルロッテは違った。
彼女は、窓ガラスを叩く雨音の中に、悲しみではなく、力強い「生命のドラム」の響きを感じ取っていたのだ。
「ねえ、モフモフ。行こう。森が、ごくごくとお水を飲んでいる音がするよ」
シャルロッテは、防水加工が施された厚手の雨具を着込み、モフモフにも特製の雨合羽を着せて、誰もいない王城の裏手、手つかずの原生林へと足を踏み入れた。
森の中は、薄暗く、そして圧倒的な水の匂いに満ちていた。
普段は乾いている土の道が、小さな川のように流れ、木々の葉は重たい水滴を弾いて、バシャバシャと大きな音を立てている。
シャルロッテは、森の奥深くに佇む人影を見つけた。それは、庭師長のハンスだった。彼は傘も差さず、大木の下で、ただ静かに雨に打たれる森を見上げていた。
彼は、いつものように樹木の手入れをしているのではなかった。
ただ、そこに居るだけだった。
「ハンスさん。雨宿り?」
「……おお、姫殿下。このような日に、森へおいでになるとは」
ハンスは、深く息を吸い込んだ。
「いいえ、雨宿りではございません。私は、森の深呼吸を聴きに来たのです。この雨は、私たちにとっては不便な天気ですが、木々にとっては、待ちに待った恵みの宴なのです」
シャルロッテは、ハンスの隣に立ち、目を閉じた。
そして、土属性と水属性の魔法をごく微細に発動させ、自分の感覚を、森の根系へと拡張させた。
そこで彼女が感じたのは、想像を絶する「生命の奔流」だった。
地上の静けさとは裏腹に、地面の下では、猛烈な勢いで水が吸い上げられていた。無数の根が、まるで巨人の血管のように脈打ち、冷たい雨水を、生命のエネルギーへと変換して、高い高い梢の先へと送り届けている。
それは、人間が介入する余地のない、圧倒的で、完璧なシステムだった。
「すごい……。地面の下で、何億もの命が、『生きるぞ!』って叫んでる音がする」
シャルロッテは目を開け、目の前の巨木を見上げた。樹齢数百年を越えるその木は、豪雨を全身で受け止め、黒く濡れた樹皮を光らせていた。
雨は、葉の汚れを洗い流し、幹を伝って根元へと集まり、白い泡となって大地に染み込んでいく。
「姫殿下。ご覧ください。あの苔の輝きを」
ハンスが指さした先には、普段は地味な岩肌の苔が、水分を含んで、エメラルドのような鮮烈な緑色に発光していた。乾燥していた時には見せなかった、爆発的な生命力がそこにあった。
キノコたちは、雨の湿気を吸って、目に見える速度で胞子を膨らませている。
「晴れた日の庭園も美しい。しかし、この雨の日の、泥と水の匂いがする森こそ、生命の源流です。私たちは、この圧倒的な力に生かされているのです」
ハンスの言葉には、庭師としての誇りを超えた、自然への畏敬の念が込められていた。
シャルロッテも、魔法で雨を止めようとはしなかった。また、「雨さん、ありがとう」と可愛らしく擬人化することもしなかった。
ただ、その圧倒的な自然の営みの前に、小さな一人の人間として、静かに立ち尽くした。
彼女は、光属性魔法をごく控えめに応用し、自分とハンスの視覚を強化した。
すると、雨粒の一粒一粒が、森の養分を溶かし込み、循環していく様子が、金色の糸のように見えた。
空から落ちた水は、土を潤し、木を育て、やがて川となり、海へ注ぎ、また雲となる。その悠久のサイクルの、ほんの一瞬に、自分たちが立ち会っているのだという感覚。
「……私たちは、ちっぽけだよね、モフモフ」
モフモフは、雨音に耳を澄ませながら、静かに「グルル」と喉を鳴らした。彼もまた、野生の本能で、この雨の偉大さを理解していた。
シャルロッテは、泥の跳ねたブーツを見つめ、そして空を見上げた。
厚い雲の向こうに、太陽があることを知っている。しかし、今は、この冷たく、激しく、そして豊かな雨こそが、世界に必要なのだ。
「ハンスさん。私、魔法で何かを直したり、変えたりするのが好きだけど……。今日は、何もしないことが、一番正しい気がするわ」
「はい、姫殿下。ただ、在るがままを感じること。それこそが、自然への最大の礼儀でございます」
二人は、言葉少なに、雨が小降りになるまで森に佇んでいた。
何の問題も解決されなかった。誰も救われなかったし、誰も称賛しなかった。
しかし、王城に戻ったシャルロッテの顔には、昨夜のパーティーとは違う、深く、静かな充実感が満ちていた。
彼女のドレスの裾は泥で汚れていたが、その汚れは、大地と触れ合った、誇り高い証のように見えた。
自然は、人間の都合などおかまいなしに、ただ力強く、美しく、そこに在り続けていた。




