第四百三十五話「琥珀色の風船と、十月の『時間の標本』」
その日の午後、王城の空は、絞りたての葡萄ジュースのような、深く透き通った紫色に染まり始めていた。夏が荷物をまとめて去っていき、代わりに秋が、カサカサと落ち葉の靴音を響かせてやってくる、そんな季節の継ぎ目だった。
シャルロッテは、モフモフを抱き、マリアンネ王女の研究塔の屋根に上っていた。そこには、誰も悩んでおらず、誰も泣いておらず、ただマリアンネが作った奇妙で美しい機械が、静かに回転していた。
それは、真鍮とガラスでできた、巨大な風車のような装置だった。しかし、羽根の代わりに、無数のガラスの瓶がぶら下がっている。瓶の中は空っぽに見えるが、時折、琥珀色の光が蛍のように瞬いていた。
「シャル。静かにね。今、ちょうど今年の夏を収穫しているところなの」
マリアンネは、いつもの白衣ではなく、夕焼け色に染まったエプロンをつけて、ガラス瓶の一つ一つを丁寧に磨いていた。彼女は数式や論理で頭を抱えてはいなかった。ただ、熟した果実を摘む農夫のような、穏やかで満ち足りた顔をしていた。
「夏を収穫するの?」
シャルロッテは、風に揺れるガラス瓶を見上げた。チリン、チリンと、氷砂糖が触れ合うような涼やかな音がする。
「ええ。今年の夏の日差し、セミの声、噴水の水飛沫、そして子供たちが走った時の土埃の匂い。それら全部が、空気中に溶けて消えてしまう前に、この機械で捕まえて、瓶の中に閉じ込めるのよ」
シャルロッテは、その素敵なアイデアに息を飲んだ。それは誰かを救うためでも、何かを直すためでもない。ただ、過ぎ去る美しい時間を、手元に残しておきたいという、純粋で贅沢な願いだった。
「わあ……。とっても素敵! 今年の夏は、どんな味がするのかしら」
シャルロッテは、そっと手を伸ばし、回転する機械からこぼれ落ちそうになった、ひとつの小さな光の粒を指先で受け止めた。
その瞬間、シャルロッテの脳裏に、鮮烈なイメージが弾けた。
それは、七月の午後に食べた、冷たいレモンシャーベットの鋭い酸味。
入道雲の白さ。
そして、芝生の上でフリードリヒ兄様と転げ回った時の、草いきれの青い匂い。
それらは、何の教訓も含まず、何の役にも立たないけれど、ただひたすらに美しく、完璧な記憶の断片だった。
「お姉様。この瓶、蓋を開けたらどうなるの?」
「真冬の雪の日に、この蓋をひとつ開けるのよ。そうするとね、部屋の中に一瞬だけ、七月の風が吹くの。そして私たちは、暖炉の前で、夏の幽霊とダンスを踊ることができるわ」
マリアンネは、最後の瓶の蓋を閉めると、満足げに機械を止めた。屋根の上には、琥珀色の液体が満たされた数百の瓶が、夕日を浴びて黄金色に輝いていた。それはまるで、時間そのものを結晶化させた宝石箱のようだった。
何も事件は起きなかった。
誰も困ってはいなかったし、シャルロッテが魔法で何かを解決する必要もなかった。
シャルロッテは、ただポケットから、自分が持っていた「風船ガムの魔法」を取り出した。
彼女は、ふーっと息を吹き込み、虹色に光る大きなシャボン玉のような風船を一つ膨らませた。そして、その中に、今、目の前にある「夕暮れの紫色の空」と「マリアンネお姉様の満足そうな横顔」を、そっと閉じ込めた。
「はい、お姉様。これは、私からのプレゼント。今日の夕暮れの缶詰だよ」
マリアンネは、その風船を受け取り、光にかざして微笑んだ。
風船の中では、小さな夕日が、永遠に沈まないまま、優しく揺れていた。
「ありがとう、シャル。これは、私のコレクションの中で、一番の傑作になるわ」
二人は、並んで座り、日が完全に沈むまで、空が紫から群青、そして漆黒へと変わっていくのを眺めていた。モフモフは、シャルロッテの膝の上で、秋の匂いのする風に鼻をひくつかせていた。
世界は、直すべき欠陥など何もなく、ただ美しく、静かにそこにあった。そして、二人の王女は、その完璧な時間の一部となって、夜の中に溶けていった。




