第四百二十八話「雨の日のタルトと、姫殿下の『冷たい推理』」
その日の午後、王城の窓を叩く雨は、まるで失恋した吟遊詩人が奏でるハープの音色のように、執拗で、どこか感傷的だった。空は、古い銀貨を溶かしたような鈍い色をしていて、薔薇の塔の居室には、湿った空気と、解決されるべき事件の気配が漂っていた。
私は、窓辺の椅子に深く腰掛け、愛用のマグカップに入ったホットミルクを嗜んでいた。湯気が、私の視界を白く優雅に濁らせる。私の膝の上には、相棒のモフモフが、まるで人生のすべてを悟りきった哲学者のような顔で、丸くなっていた。
事件は、三十分前に起きた。
エマが運んできた、今日のおやつである「季節限定の栗のタルト」が、皿の上から忽然と姿を消したのだ。
「姫殿下。確かに、ここ置いたはずなのです。ほんの少し、紅茶の葉を取りに戻った隙に……」
エマの瞳は、嵐の夜の湖面のように揺れていた。彼女は、自分の管理不足を嘆いていたが、私は知っている。彼女は王城で一番優秀なメイドだ。彼女がミスをする確率は、モフモフが空を飛ぶ確率よりも低い。
「泣かないで、エマ。涙は、解決の役には立たないわ。それに、濡れたハンカチは、乾くのに時間がかかるものよ」
私は立ち上がり、お気に入りの探偵用のケープ――ベージュ色の、少し大きめのやつだ――を羽織った。こうした事件を解決するときにはもってこいの探偵衣装だ。
私は今日は魔法を使わないと決めた。安易な魔法による解決は、タルトの尊厳を傷つける気がしたからだ。この事件には、足と、目と、灰色の脳細胞(といっても、私の脳みそはピンク色かもしれないけれど)が必要だ。
私は現場であるテーブルを見た。
白いクロスの上には、タルトの粉一つ落ちていない。犯人は、プロだ。あるいは、食欲という名の悪魔に魂を売った、悲しき怪物か。
「行くわよ、モフモフ。仕事の時間だわ」
私は廊下に出た。廊下は静まり返っていた。雨音が、遠くで響くドラムのように聞こえる。
最初の容疑者は、第二王子フリードリヒだ。なにしろ彼は、筋肉と食欲の化身だ。
私は訓練場の扉を開けた。そこには、汗と鉄の匂いが充満していた。兄は、巨大な剣を振っていた。
「よう、シャル。雨の日に訓練場に来るとは、感心だな」
兄の笑顔は、夏の太陽のように眩しい。だが、私はその笑顔の裏にある真実を探る。
私は兄の口元を見た。クリームの痕跡はない。手を見た。栗の皮の破片もない。そして何より、彼の剣筋には迷いがない。
私は率直に尋ねることにした。
「兄様。栗のタルトを知らない?」
「タルト? ああ、腹が減って死にそうだが、見てないな。俺が食うなら、皿ごといくぜ」
彼の言葉には、鋼鉄のような響きがあった。兄様は嘘をつくような人ではない。彼は、タルトを盗むくらいなら、堂々と「くれ」と言う人だ。間違いない。シロだ。
次の容疑者は、第一王子アルベルトだ。彼は甘いものに目がない。特に、ストレスが溜まった時の彼は、砂糖の山に埋もれたがる蟻のようだ。
執務室の扉をノックする。
「入りたまえ」
兄の声は、整理された書類棚のように冷静だった。部屋に入ると、彼は眉間にしわを寄せて書類を見ていた。机の上には、冷めた紅茶が一杯。
「兄様。大変なの。タルトが消えたの」
「それは国家の一大事だな。だが、あいにく私は、隣国の関税問題という、もっと苦いものを味わっている最中だ」
彼はため息をついた。その息からは、甘い香りはしなかった。漂うのは、インクと古い紙、そして疲労の匂いだけだ。
「そう。お仕事、頑張ってね」
私は部屋を出た。彼もシロだ。彼がタルトを盗んだとしたら、もっと完璧なアリバイを用意するはずだ。彼は、犯行現場に「不在証明書」を置いていくような几帳面な男だからだ。
私は、再び薔薇の塔へ戻った。
事件は迷宮入りかと思われた。だが、探偵(即席だけど……)の直感が、私に警鐘を鳴らしていた。灯台下暗し。真実はいつも、一番近くの、一番柔らかい場所にあるものだ。
私は部屋に戻り、じっと床を見つめた。
そして、モフモフを見た。
私の相棒は、ベッドの上で、無邪気な顔をして寝そべっていた。その姿は、天使の羽毛布団のように無垢に見える。だが、私は見逃さなかった。
彼の口元の毛が、ごくわずかに、一ミリほど、茶色く変色しているのを。そして、部屋の隅に、栗のタルトの飾りに使われていた、小さな金箔が一枚、落ちているのを。
私は、静かにモフモフの前にしゃがみ込んだ。
「ねえ、モフモフ。タルトは、美味しかった?」
モフモフは、片目だけを開けた。その瞳は、琥珀色の宝石のように澄んでいたが、そこには、「バレた……?」という、微かな諦めの色が浮かんでいた。
彼は、「ミィ」と短く鳴いた。それは、言い訳ではなく、潔い自白だった。
私はため息をついた。怒りは湧いてこなかった。あるのは、ほろ苦いココアのような、静かな納得だけだ。
犯人は、私の相棒だった。彼もまた、雨の日の憂鬱と、甘い誘惑に勝てなかったのだ。誰が彼を責められよう? 私たちは皆、欲望という名の檻の中の囚人なのだから。
私は、モフモフの口元の汚れを、ハンカチで優しく拭き取った。
「事件は解決したわ、エマ。タルトは、妖精が持っていったのよ。きっと、お腹が空いていたのね」
私はエマにそう告げた。真実を暴くことが、常に正義とは限らない。時には、優しい嘘が、冷たい雨を防ぐ傘になることもある。
私は、椅子に座り直し、冷めかけたホットミルクを飲み干した。タルトは消えた。だが、モフモフのお腹は満たされた。世界は、それで均衡を保っている。
窓の外では、雨がまだ降り続いていた。それは、この王城の小さな事件を洗い流すように、静かに、そして優しく、世界を濡らしていた。
「さて、モフモフ。次はクッキーでも焼こうかしら。今度は、ちゃんと二人で分け合えるやつをね」
私はそう呟き、雨の音に耳を傾けた。小さな事件が解決した午後は、こうして静かに幕を閉じた。




