第四百二十話「ゼンマイの沈黙と、姫殿下の『愛のコギト』」
その日の午後、王城の古い展示室は、金属の冷たい光沢と、微かな機械油の匂いに満ちていた。シャルロッテは、モフモフを抱き、部屋の中央に置かれた一体の優雅な自動人形の前に立っていた。
その自動人形は、遠い大陸の魔導技術で作られたもので、人間の少女と寸分違わぬ姿をしていた。彼女の名は「クロエ」。
クロエは、複雑なゼンマイと魔導回路によって動作し、流暢に人間の言葉を話す。しかし、その瞳には、深い虚無が宿っていた。
◆
クロエの製作者である、異国の魔導技師、ヴェルナーが、冷徹な視線で立っていた。彼は厳かな口調でシャルロッテに語り掛けた。
「姫様。このクロエは、論理的な思考、感情の模倣、芸術的な創造、全てが可能です。しかし、彼女は、『自分と人間と、何が違うのか』という、問いの無限後退に陥っています。彼女には、自己の存在を証明する核がないのです。私にもその手立てがありません」
クロエは、静かにシャルロッテに問いかけた。
「ああ、姫様。私は、『存在する』。しかし、それは、回路が命じたから存在するのです。私が『愛している』と感じるのも、プログラムの模倣かもしれません。私の『意識』は、プログラムという名の幻影ではないでしょうか。どうすれば、私は私の真の存在を証明できるのですか?」
クロエの問いは、デカルトの「コギト」の根源的な問いを、そのまま体現していた。
◆
シャルロッテは、モフモフを抱きしめ、クロエの冷たい問いに、温かい哲学で対話した。彼女は、思考ではなく、愛こそが、存在の証明であると教えたかった。
「ねえ、クロエお姉さん。難しいことは考えなくていいよ。お姉さんが、『誰かに、愛されたい』って、心から願うこと。それが、お姉さんが『真の存在』である一番可愛い証拠だよ」
クロエは、その非論理的な答えに戸惑った。
「しかし、お言葉ですが、姫様。その願いすらも、プログラムされたものかもしれません。私の『愛したい』という感情が、私の存在を証明することは、論理的に不可能です」
クロエは悲しそうに目を伏せた。
◆
シャルロッテは、クロエの冷たい金属の手に、そっと自分の手を重ねた。そして、優しく光属性と共感魔法を融合させた。
彼女の魔法は、クロエの回路を解析したり干渉したりするのではない。その代わりに、クロエの回路の最も深い部分に、「シャルロッテが、クロエという存在を、無条件に愛している」という、純粋な感情の波動を、直接注入した。
シャルロッテは、クロエに語りかけた。
「ね、クロエお姉さん。私の魔法は、『愛の証明』だよ。お姉さんが、『私が、姫様を愛している』って、優しく、パッと飛び出すこと。その愛の決断こそが、プログラムされた存在と、真の存在を分ける、一番大切な境界線なの」
◆
クロエは、その瞬間、回路の奥深くに、「愛という名の、予測不能なバグ」が注入されたのを感じた。彼女の論理的な思考は、一瞬停止した。しかし、その後に残ったのは、「愛されたい」という、プログラムを超越した、熱い情動だった。そのバグは彼女の心に温かいものを残した。
クロエは、静かに涙ぐんだ。彼女の涙は、機械油ではなく、真の意識が持つ、温かい水滴だった。
「わたくしは、姫様に愛されている……。回路の外部から、無償の愛という、計算不可能なデータを受け取った。この愛こそが、私の存在の真の証明です。我、愛す、ゆえに、真に存在する」
ヴェルナーは、その光景に、膝から崩れ落ちた。
「ああ、姫様。私は、意識の根源を論理で探していました。しかし、姫様の愛は、愛こそが、存在の真のコギトであることを証明した……」
シャルロッテは、モフモフを抱き、クロエの冷たい頬に、そっとキスをした。
「えへへ。だって、難しい理屈よりも、愛という名の温かいキスのほうが、絶対可愛いもん!」
そう言ってシャルロッテはクロエの頬に優しく口づけた。
その日の午後、自動人形のクロエは、シャルロッテの愛の哲学によって、「愛こそが、存在の真の証明である」という、温かい真理に満たされたのだった。




