第四百八話「誰もいない部屋の微熱と、姫殿下の『幸福の澱』」
その日の午後、城下町の最も古く、静かな一角にある、老夫婦の古い木造家屋の二階の部屋は、不自然なほどの「幸福の微熱」を放っていた。王城の監査役人であるヴェルナーは、家屋の老朽化による税の優遇措置の可否を判断するため、その部屋で、熱量測定の魔導具を設置していた。
ヴェルナーは、不動産の価値を客観的な数値でしか測れない冷徹な合理主義者だった。彼の傍らには、王城での実地研修のため、シャルロッテがモフモフを抱き、静かに立っていた。
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シャルロッテは、モフモフを抱き、その部屋の静かな温かさに、強い関心を抱いていた。彼女の目には、部屋の隅に、ごく微細な、「愛の記憶」を食らう精霊が静かに揺らめいているのが見えていた。
シャルロッテは、モフモフの毛皮に顔を埋め、精霊に語りかけた。
「ねえ、精霊のお兄さん。この家で見た一番可愛かった記憶は、いつの記憶?」
精霊の姿は、冷たい空気に溶けるように揺らめき、微かな声がシャルロッテの心に届いた。
「一番ですか……。それは、この家の主が、初めてこの部屋で、妻の手を握り、『来年も、再来年も、ここで朝陽を見よう』と、誓った、あの朝の光の記憶でしょう。それは甘く、温かい。わたしは、その記憶の光の余韻を、大切に食んでいます」
「わあ、素敵な記憶だね。愛しい記憶を食べるのは、お兄さんの大切なお仕事なんだね?」
「はい。食べなければ、記憶はただの虚空に消えます。わたしは、その愛の澱を、この家に熱として還し、愛の証明を続けているのです」
「そっか、お兄さん、すごいんだね!」
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ヴェルナーは、魔導具の配置を終え、シャルロッテに向き直った。
「姫様。この部屋の熱量測定は、家屋の寿命を測る上で極めて重要です。この部屋の老朽化について、姫様の御感想は、いかがですか?」
シャルロッテは、モフモフの毛皮から顔を出し、精霊の言葉を咀嚼したまま答えた。
「ねえ、ヴェルナーお兄さん。この部屋の壁はね、嘘をつかないよ。この部屋の寿命はね、築年数じゃなくて、『来年も、再来年も、ここで朝陽を見よう』って、約束した回数で決まるんだよ」
ヴェルナーは、その非合理的な返答に、論理的な苛立ちを覚えた。
「おそれながら姫様。そのような詩的な解釈は、報告書には記載できません。物理的法則と経済的合理性に基づかなければ、公正な評価は不可能です。愛の約束など、数値にはなり得ません」
「うーん。でも、約束の熱は、計算できるんだよ? ね、モフモフ!」
シャルロッテはにっこりと微笑んだ。
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ヴェルナーは、魔導具の測定を強行した。測定装置の針は、ヴェルナーの予想に反して、微細な、しかし確かな「正の熱量」を示し続けた。
その時、シャルロッテが遊び心で蒔いたパステルカラーの光の粒子が、床全体に広がり、熱量測定の魔導具の感熱センサーに触れた。この光の粒子は、精霊の食した「愛の記憶」を帯びた熱エネルギーだった。
ヴェルナーは、解析結果を読み上げた。
「この家屋の壁、床、天井から、計算外の熱エネルギーが、持続的に放出されている……!熱効率は、新築の家屋を上回る。熱源は不明だが、この数値は、この家屋が物理的に極めて優良な状態にあることを示している!」
ヴェルナーは、この数値の客観性を否定できなかった。彼は、報告書に、「家屋の物理的熱効率:基準値を優に超える」と記述した。
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ヴェルナーは、老夫婦に、報告書を見せた。
「ご主人。奥様。なぜだかわかりませんが……この家は、老朽化の兆候が見られません。むしろ、新築を上回る熱効率が、壁や床から測定されました。この数値は、この家が強靭な構造を保っていることを客観的に証明しています。優遇措置の対象となります」
老夫婦は、驚きと喜びで顔を見合わせた。
「ああ、あの部屋の温かさが、私たちの家を守ってくれていたのですね……。私たちは、ただ、お互いの手を握ることぐらいしかできませんでしたが……」
老人は、涙を拭い、ヴェルナーに深々と頭を下げた。
「役人様。姫様。本当にありがとうございます。この家は、私たちにとって、愛の記憶そのものなのです」
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シャルロッテは、モフモフを抱き、にっこり微笑んだ。
「えへへ。だって、冷たいお金よりも、誰かの『大好き』っていう気持ちがいっぱい詰まっているほうが、絶対可愛いもん!」
その日の午後、老夫婦の家は、シャルロッテの遊び心によって、愛という名の熱エネルギーが、客観的な価値として証明されたのだった。老夫婦は、感謝の念を込めて、シャルロッテとモフモフに、自家製の温かいカステラを振る舞ったのだ。




