第四百四話「舞台裏の白塗りピエロと、姫殿下の『静かなる涙の輪郭』」
その日の深夜、王城の演舞場に張られたテントは、熱狂の残響と、湿った化粧の匂いに満ちていた。サーカス団の団員たちは、片付けを終え、静かに寝静まっている。
舞台裏の隅、小さな鏡の前で、ピエロのアントニオは、白塗りの顔を、静かに、しかし決然とした手つきで拭い落としていた。彼の心は、先ほどまでの観客の歓声の「熱」と、今この瞬間の「静かな孤独」という、二つの極端な現実の間で、静かに漂流していた。
彼は、鏡の中の自分を見つめた。白塗りの下の素顔は、誰の感情も反映しない、ただの空虚な肌色だった。彼は、自分の存在が、「笑い」という役割によってのみ成立し、その役割を終えた今、自分は無意味な余白になったかのように感じていた。
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歓声は、遠くの波のように引いていく。
私は、あの舞台の上で、ピエロとして世界で最も幸せな男だった。あの時、私の顔は、白塗りの下に、真の「笑い」という名の感情を持っていたのだろうか?それとも、あの笑いは、観客の要求に応えるための、完璧に計算された虚構だったのか?鏡に映る私は、誰でもない。白塗りを剥がした私は、この世界に何の意味も持たない、透明な存在だ。私は、舞台という光の中で、愛を与え続けたが、今、愛を受け取る術を忘れた。
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シャルロッテは、モフモフを抱き、その舞台裏の静寂の中に、音もなく現れた。彼女の目には、アントニオの素顔が、「愛の不在」という、冷たい透明さに囚われているのが見えていた。
「ねえ、アントニオお兄さん。そのお顔、とっても静かだね。まるで、世界で一番古い物語みたい」
アントニオは、姫様の出現に、一瞬、鏡を見るのをやめた。
「姫様、なぜこのようなところに……? ……おそれながら、ここは舞台裏です。わたくしは、ただの、役割を終えた男にすぎません。あなたの純粋な瞳にとって、見るに値するものは何もございません」
シャルロッテは、アントニオの言葉を否定しなかった。その代わりに、彼の「役割の不在」という孤独を、愛の献身という、新しい意味で包み込むことを選んだ。
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シャルロッテは、鏡の前に立ち、アントニオの白塗りの残りがついた頬に、そっと触れた。そして、光属性と共感魔法を融合させた。
彼女の魔法は、アントニオの肌に残る「役割の終わり」という冷たい感覚を消すのではない。その代わりに、彼の顔の周りの空間に、「観客の心の中に、彼が植え付けた、無数の笑いの種」という、パステルカラーの微細な光の粒子を、優雅に舞い上がらせた。
シャルロッテは、アントニオの頬の白塗りの残骸を、そっと指でなぞった。
「ねえ、お兄さん。笑いはね、役割じゃないよ。笑いはね、誰かに、喜びの種をあげるための、一番優しい本質のプレゼントなんだよ。お兄さんのお顔は、もう白塗りじゃない。愛の種が、いっぱい詰まっている、温かい土なんだよ」
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アントニオは、鏡の中に、自分の顔から舞い上がる、美しい光の粒子を見た。彼の笑いは、虚構ではなく、「誰かの幸福」という、確かな実りを生んでいたのだ。彼の自己の不在という感覚は、「誰かの心の中に、永遠に生き続ける愛の種」という、新しい存在意義によって、満たされていった。
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姫様が私の頬をなぞる、その指の温もり。ああ、私は、役割を終えても、無意味な余白ではなかった。私の笑いは、観客の心の中で、静かに、しかし確かに芽吹いているのだ。私の顔は、空虚な肌色ではなく、愛という名の種を育む、温かい大地だった。私の孤独は、誰にも邪魔されない、愛の静かなる作業の場だったのだ。
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アントニオは、鏡に映る自分の顔を、初めて愛おしいものとして見つめた。彼は、シャルロッテの愛の哲学に、深く頭を下げた。
「姫様。わたくしは、笑いを虚構の仮面と信じておりました。しかし、あなたの愛は、虚構の笑いを、真の愛の種へと変えてくれました。わたくしの存在は、役割ではなく、愛の種を蒔く献身だったのですね」
シャルロッテは、モフモフを抱き、にっこり微笑んだ。
「えへへ。だって、悲しくて透明な孤独よりも、誰かの心の中で笑っているお顔のほうが、絶対可愛いもん!」
その日の深夜、舞台裏は、シャルロッテの愛の哲学によって、「愛の献身は、自己の存在に、永遠の価値を与える」という、温かい真理に満たされていたのだった。




