第四百話「風のパイプと、建築家の『予期せぬ歓喜の残響』」
その日の午後、王城の会計室は、空冷魔法が効きすぎた静寂の中にあった。
宮廷の会計士、フリッツは、羽根ペンを手に、王城改修費の膨大な数字の羅列をチェックしていた。彼は、建築家ユーディトが設計した城壁の一部――風を通すための、不規則な曲線を持つ換気パイプの項目を見て、眉をひそめた。
「構造上の合理性が全く見当たらない。この不必要な曲線は、工費を17パーセントも押し上げている。これは無駄だ」
フリッツは、合理性と経済効率を追求する、会計の論理の住人だった。彼の論理では、ユーディトの情熱的な設計は、ただの「コスト超過」でしかなかった。
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シャルロッテは、モフモフを抱き、会計室のドア枠に寄りかかっていた。彼女の目には、フリッツの持つ「合理性の帳簿」が、「人生の喜び」の収支を全く記録していないのが見えていた。
その時、城壁の方角から、ごく微かな、しかし確かに幸福感を含む、不規則な旋律が、会計室に流れ込んできた。フリッツは、作業を中断し、その音の出所を探した。それは、ユーディトが設計した城壁の曲線パイプを、風が通り抜ける際に生じる、予期せぬ音だった。
「この音は……。まるで、どこかの楽団の即興演奏のようだ。だが、この音は、城壁から聞こえてくる……?」
フリッツは、奇妙な違和感に囚われた。
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シャルロッテは、その音に耳を澄ませた。彼女の共感魔法は、その音色が、「ユーディトが設計時に込めた、構造的な美への情熱」と、「風という自然の意志」が、不規則に交じり合った結果であることを感知した。そして、その音が、王城の住人たちの心に、予期せぬ静かな喜びをもたらしていることも。
シャルロッテは、フリッツに、その音の連鎖的な影響を探ることを提案した。
彼女は、光属性と時間魔法を融合させた。
その魔法は、音の発生源である換気パイプに直接作用するのではない。その代わりに、音を聴いた人々の「感情の収支」を、フリッツの会計帳簿に、「非合理的な収益」として記録させるように仕向けたのだ。
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フリッツが解析装置を起動させると、帳簿には、驚くべきデータが映し出された。
ユーディトの「不必要な曲線」(コスト超過項目)の行に、「喜びの収益」という新しい科目が加えられていた。そのごく一部が以下だった。
宮廷楽師フェリクス: 城壁の音を聴き、即興演奏のアイデアを得た。収益:「創作意欲の向上 +30%」
大食堂の料理人ジェラール: 城壁の音を聴き、「盛り付けの曲線美」の着想を得た。収益:「料理の満足度向上 +15%」
庭師ハンス: 城壁の音を聴き、「風が通る庭園の設計」の着想を得た。収益:「作業効率の向上 +10%」
フリッツが追求していた「合理的コスト」の隣には、ユーディトの情熱がもたらした、「非合理的な幸福の収益」という、膨大な実利が記録されていた。この非合理的な収益は、建設費の17パーセントなど、遥かに凌駕していた。
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フリッツは、思わず羽根ペンを落とし、静かに悟った。
「私が追求していた合理性は、冷たい数字の計算でしかなかったのか……。しかし、ユーディトの情熱的な曲線は、人間の心の満足という、客観的な収益を生み出していた……。経済学の帳簿には、愛という名の不確実な収益を計上する余白が必要だったのだ」
フリッツは、ユーディトの設計費の項目に、「非合理な情熱への投資」という新しい注釈を書き加えた。
シャルロッテは、モフモフを抱き、にっこり微笑んだ。
「えへへ。だって、コストを減らすことよりも、誰かの心に、思わぬ可愛い音符をプレゼントするほうが、絶対可愛いもん!」
その日の午後、会計室は、シャルロッテの愛の哲学によって、「個人の情熱は、客観的な実利を超えた、普遍的な幸福を社会にもたらす」という、温かい真理に満たされたのだった。




