第三十五話「深夜の窓辺と、城下町の消えない灯火」
その夜、王城は深い静寂に包まれていた。真夜中の闇の中、シャルロッテはふと目が覚めた。横にはモフモフが丸くなって眠っている。
シャルロッテは、天蓋付きのベッドから抜け出し、薔薇の塔の大きな円形の窓辺に立った。窓の外、城下町のほとんどの家の灯りは消え、世界は漆黒の闇に沈んでいる。
その暗闇の中で、シャルロッテの心に、ふと、孤独な問いがよぎった。
それは、前世で「跡取り」という役割から解放された後に残った、根源的な不安だった。
「もし、私という存在が、誰にも気づかれずに消えてしまったら、この世界に何か変化はあるのだろうか」
愛されていることは知っている。しかし、自分という個の存在が持つ意味を、暗闇の中で問いかけていた。
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シャルロッテは、その不安を打ち消そうと、照明魔法を使おうと手のひらに魔力を集中した。しかし、彼女はためらった。自分が放つ虹色の光が、城下町の闇を一瞬で照らしても、人々の心に届かなければ、それはただの空虚な光ではないか。
その時、シャルロッテは、城下町の闇の中で、ただ一点、消えていない小さな灯りがあることに気づいた。それは、エマの家族が営むパン屋「麦の香り」の窓の灯りだった。
目を凝らすと、パン屋の窓ガラス越しに、エマの弟カールが、夜中に一人でパン生地を捏ねる小さな影が見えた。彼は、誰に見られるわけでもなく、ただひたむきに、翌朝人々の朝食になるパンのために働いている。
シャルロッテは、その小さな灯りこそが、誰にも気づかれないが、「誰かの明日」という未来を静かに支えているという、根源的な存在意義を象徴していると理解した。彼の存在が、あの小さな灯りが、世界を成り立たせているのだ。そして、自分の存在も、誰かの笑顔を支える、あの小さな灯りの一つであると悟った。
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シャルロッテは、照明魔法を使う代わりに、パン屋の灯りに向かって、光属性の治癒補助魔法をごく優しく送った。
それは、カールの疲れを癒やし、彼の働きを肯定し、彼を支える、無言の感謝の光だ。光は、静かに夜の闇を越え、パン屋の小さな窓に届いた。
その時、扉が静かに開き、エレオノーラ王妃が入ってきた。王妃は、娘の不安を察していたかのように、何も言わずにシャルロッテの隣に立ち、一緒に城下町の灯りを見つめた。
「大丈夫よ、シャル」
エレオノーラ王妃は、静かに、そして力強く言った。
「あなたの光は、いつもみんなを照らしているわ。あなたが、ただそこにいて、笑っている。それだけで、この城は、そしてこの国は、温かい光に満たされているのよ」
王妃は、娘の存在そのものを、無条件に肯定した。
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シャルロッテは、孤独な問いから解放され、母の腕の中に身を寄せた。
「ママ……ありがとう」
エレオノーラ王妃は、娘の小さな背中を優しく撫でた。
パン屋の小さな灯りは、依然として闇の中で輝いていた。シャルロッテは、母の愛と、城下町の誰かのひたむきな働きという、二つの確かな灯火に包まれ、静かに再び眠りについた。彼女は、この世界における自分の「意味」を、誰かの存在を肯定することの中に見出したのだった。