第三話「ティーパーティーと貴族のマナー講座」
薔薇の塔の一室で、シャルロッテは鏡の前に座っていた。
「シャル様、今日はどちらのドレスになさいますか?」
エマが、クローゼットから次々とドレスを取り出す。パステルピンク、ラベンダー色、クリーム色――どれもレースやフリルがたっぷりとあしらわれた、夢のように可愛らしいドレスばかり。
「んー……今日はティーパーティーだから、お上品な感じがいいな」
シャルロッテは小さな指を唇に当てて、真剣に悩んだ。その仕草がまた愛らしくて、エマは思わず「まあ」と小さく声を漏らした。
「それでしたら、このミントグリーンのドレスはいかがでしょう? レースの襟元が上品で、シャル様のお肌を美しく見せてくれますわ」
「わあ、素敵! それにする!」
ドレスを着せてもらう時間は、シャルロッテにとって至福のひとときだ。ふわふわのペチコートが何枚も重ねられ、柔らかい絹のドレスが体を包む。背中のリボンを結んでもらう時の、きゅっと締まる感覚。全てが愛おしい。
「髪型はどういたしましょう?」
「お団子にして、リボンをつけてほしいな。あ、でも三つ編みも可愛いし……」
「では、ハーフアップにして、後ろで大きなリボンを結びましょうか。可愛らしさと上品さ、両方を兼ね備えていますわ」
「さすがエマ!」
銀色の髪が丁寧にブラシで梳かれる。エマの手つきは優しくて、心地よい。髪をふんわりと結い上げ、大きな白いリボンで飾る。
「まあ、なんて可愛らしい……」
エマが感嘆のため息をついた。
「殿下は本当に、お人形さんのようですわ」
「えへへ、ありがとう」
鏡を見ると、そこには前世では絶対に見ることのできなかった、可愛らしい女の子が映っていた。ふわふわのドレス、キラキラした瞳、ピンク色の頬。
シャルロッテは嬉しくて、思わずくるりと回った。スカートがふわりと広がって、まるで花が開くよう。
「よし、準備完了!」
ティーパーティーの会場は、王城の東の間だった。大きな窓からは庭園が見渡せ、陽光が差し込む明るい部屋。真っ白なテーブルクロスのかかったテーブルには、銀のティーセットと、色とりどりのお菓子が並んでいる。
「わあ……!」
シャルロッテは目を輝かせた。
三段重ねのケーキスタンドには、小さなサンドイッチ、マカロン、プチケーキ、クッキーが美しく飾られている。どれも一口サイズで、まるで宝石のよう。
「可愛い……!」
「シャル様、お客様がいらっしゃる前に、そんなに見入ってしまわれると……」
エマが苦笑いしたその時、扉がノックされた。
「失礼いたします」
入ってきたのは、第一王女のイザベラと、第二王女のマリアンネ、そして数名の貴族の子女たちだった。
「シャル! 可愛いドレスね!」
イザベラが駆け寄ってきて、シャルロッテの手を取った。
「イザベラお姉様も、とっても綺麗!」
イザベラは淡いピンクのドレスを着ていて、まるで薔薇の花のようだった。
「シャル、その髪型、素敵」
マリアンネも近づいてきて、シャルロッテの髪を優しく撫でた。
「マリアンネお姉様もー!」
シャルロッテは嬉しそうに姉たちに抱きついた。その様子を見ていた貴族の子女たちが、顔を綻ばせる。
「三女殿下、本当にお可愛らしい……」
「まるで妖精みたい」
小さな囁きが聞こえてくる。
「みなさん、ようこそ! 今日は楽しいティーパーティーにしましょうね」
シャルロッテが笑顔で言うと、子女たちは嬉しそうに頷いた。
テーブルに着こうとした時、扉が再び開いた。
「失礼いたします」
入ってきたのは、黒いドレスに身を包んだ、厳しい表情の中年女性だった。
「ゲルトルート様!」
イザベラが少し緊張した声で言った。
「本日は、お招きいただき光栄です、殿下方」
ゲルトルート・フォン・シュタインベルクは、王国随一のマナー教師として知られる女性だった。貴族の子女たちに礼儀作法を教え、その厳格さで有名だ。
「あら、ゲルトルート先生。今日はお客様としてお招きしたのよ。堅苦しくしないでくださいな」
イザベラが優雅に微笑んだが、ゲルトルートの表情は変わらない。
「礼儀作法は、いかなる時も疎かにしてはなりません」
その一言で、場の空気が少し緊張した。
貴族の子女たちが、背筋を伸ばして座り直す。特に、一人の少女――エリーゼ・フォン・ノイマンという子が、顔を青くしていた。
「大丈夫?」
シャルロッテが小声で尋ねると、エリーゼは小さく頷いた。
「あの……わたし、マナーがあまり得意じゃなくて……ゲルトルート先生に、いつも注意されるんです」
「そうなんだ」
シャルロッテはエリーゼの手を、そっと握った。小さくて、少し震えている。
――この子、緊張してるんだ。
ティーパーティーが始まった。
メイドが丁寧に紅茶を注ぐ。湯気とともに、優雅な香りが立ち上る。
「まずは、紅茶の作法から」
ゲルトルートが口を開いた。
「ティーカップは、持ち手に指を通さず、指で挟むように持ちます。そして――」
彼女がお手本を示す。確かに美しい所作だけれど、とても堅苦しい。
子女たちが真似をしようとするが、緊張のあまり、ぎこちない動きになってしまう。
エリーゼに至っては、手が震えてカップをカタカタと鳴らしてしまった。
「エリーゼ様、手元が不安定ですわ」
ゲルトルートの鋭い指摘に、エリーゼの目に涙が浮かぶ。
「あの……」
シャルロッテが小さな手を上げた。
「はい、三女殿下」
「マナーって、どうして大切なんですか?」
予想外の質問に、ゲルトルートは少し驚いた表情を見せた。
「それは……礼儀正しくあるためです」
「礼儀正しくするのは、どうしてですか?」
「周囲の方々に不快感を与えないためです」
「じゃあね」
シャルロッテは、ティーカップを優雅に持ち上げた。確かに正しい作法だけれど、どこか自然で、柔らかい。
「みんなが楽しく、心地よく過ごせるのが一番大切なんじゃないかな?」
そう言って、シャルロッテはにっこりと笑った。
「マナーは、みんなを幸せにするためのものだと思うの。だから、完璧じゃなくても、心を込めてすれば、きっと相手に伝わるよ」
会場が静まり返った。
ゲルトルートは、シャルロッテをじっと見つめている。
「……三女殿下は、おいくつでいらっしゃいますか?」
「五歳だよ」
「五歳で、そのような深い洞察を……」
ゲルトルートの表情が、わずかに和らいだ。
「確かに、仰る通りかもしれません。私は、形ばかりにこだわりすぎていたのかもしれませんね」
そして、ゲルトルートは初めて微笑んだ。
「では、もう少し楽しみながら、マナーを学びましょうか」
雰囲気が一変した。
「じゃあ、ゲームをしましょう!」
シャルロッテが提案した。
「マナーゲーム?」
エリーゼが不安そうに聞く。
「うん! えっとね、順番にお菓子を取って、その時に一番素敵な所作をした人が勝ち。でも、『素敵』っていうのは、綺麗なだけじゃなくて、優しさとか、楽しそうな気持ちとか、そういうのも含めるの」
「まあ、面白そう!」
イザベラが手を叩いた。
「では、私から」
マリアンネが立ち上がり、ケーキスタンドに向かった。小さなマカロンを取る時、隣のエリーゼに「どれが好き?」と優しく尋ねた。
「わあ、優しい!」
シャルロッテが拍手すると、みんなも笑顔で拍手した。
次はエリーゼの番。彼女は緊張しながらも、丁寧にクッキーを取った。少し手が震えていたけれど、取った後、周りの人たちに「どうぞ」と皿を差し出した。
「素敵! みんなのことを考えてる!」
シャルロッテの言葉に、エリーゼの顔がぱっと明るくなった。
「本当……ですか?」
「うん! とっても素敵だった!」
ゲームが進むにつれ、会場は笑い声で満たされた。
誰かがお菓子を落としそうになると、みんなで助け合う。紅茶をこぼしそうになっても、誰も責めない。
「マナーって、こんなに楽しいものだったのね」
一人の子女が呟いた。
「ええ、本来はそうあるべきなのです」
ゲルトルートが、温かい眼差しで子供たちを見つめた。
「三女殿下、あなたは五歳にして、マナーの本質を理解していらっしゃる。私は長年教師をしてきましたが、今日ほど恥じ入ったことはありません」
「そんな、わたしは……」
シャルロッテは照れくさそうに頬を染めた。その仕草が愛らしくて、ゲルトルートは思わず微笑んだ。
「いいえ、素晴らしいことです。どうか、これからもその優しさを忘れないでください」
ティーパーティーの後半、シャルロッテは小さなマカロンを手に取った。ピンク色の、苺味のマカロン。
「可愛い……」
小さな口で、ちょこんと一口かじる。甘くて、ふわっとして、幸せな味。
「美味しい?」
イザベラが優しく聞いた。
「うん! とっても!」
シャルロッテの頬が、マカロンと同じピンク色に染まる。その表情があまりにも愛らしくて、会場にいた全員が思わず顔を綻ばせた。
「三女殿下は、本当に……」
「天使みたい」
「こんなに可愛らしい方が、王家にいらっしゃるなんて」
囁き声が聞こえてくるが、シャルロッテは夢中でマカロンを食べている。
その時、エリーゼが小さなケーキを持って、シャルロッテの隣に来た。
「殿下、これ、とっても美味しいんです。よかったら……」
「わあ、ありがとう! じゃあ、エリーゼちゃんはこのクッキー食べる? 可愛いお花の形なんだよ」
「いいんですか?」
「うん! 一緒に食べよう」
二人は顔を見合わせて、にっこりと笑った。
ティーパーティーが終わる頃、ゲルトルートはシャルロッテの前に膝をついた。
「三女殿下、本日は貴重な学びをいただきました」
「えっ、でも……」
「あなたは、形だけではない、心のこもったマナーを教えてくださいました。私はこれから、その教えを胸に、子供たちと接していきたいと思います」
そう言って、ゲルトルートは深々と頭を下げた。
「あ、あの……頭を上げてください」
シャルロッテは慌てて、ゲルトルートの手を取った。
「わたし、ただみんなと楽しくお茶したかっただけなんです」
「それこそが、最も大切なことなのですよ、殿下」
ゲルトルートは初めて、心からの笑顔を見せた。
客が帰った後、イザベラとマリアンネが、シャルロッテを抱きしめた。
「シャル、すごかったわ! あのゲルトルート先生を笑顔にするなんて!」
「本当ね。シャルって、不思議な力があるわ」
「えへへ……」
シャルロッテは姉たちの温もりに包まれて、幸せを感じた。
夜、薔薇の塔の部屋で、エマがシャルロッテの髪をほどきながら言った。
「今日のシャル様は、いつも以上に輝いていらっしゃいましたわ」
「そうかな?」
「ええ。お優しくて、賢くて、そして何より、心から楽しんでいらっしゃった。それが周りの方々にも伝わったのだと思います」
エマは、シャルロッテの髪に優しくブラシを通す。
「シャル様がいらっしゃるだけで、周りの人が幸せになる。それは、とても素敵なことですわ」
「ありがとう、エマ」
ベッドに入ると、エマが毛布をかけてくれた。ふわふわで、温かい。
「おやすみなさい、シャル様。素敵な夢を」
「おやすみなさい、エマ」
部屋が暗くなると、シャルロッテは今日一日を思い返した。
可愛いドレスを着て、美味しいお菓子を食べて、たくさんの人と笑い合った。
――こんな日々が、ずっと続きますように。
窓の外には、星が瞬いている。
優しい世界に包まれて、シャルロッテはゆっくりと眠りについた。