第二十九話「テラスの霧雨と、光の涙を流すアルベルト王子」
その日の夕暮れは、重く曇っていた。王城のテラスには、霧雨が細かく降り注ぎ、すべてを鈍色に染めている。
第一王子アルベルトは、一人、手すりに寄りかかって立っていた。
彼の優雅で端正な顔は、いつもは自信に満ちているが、今日はどこか影を帯びている。王位継承者としての重圧、硬直した政務、そして周囲の「完璧な王子」という期待が、彼の心を深く疲弊させていた。彼は、誰にも弱音を吐かず、感情を極度に抑圧していた。その孤独な姿が、テラスの霧雨の中で、切なく何とも言えないアンニュイな雰囲気を醸し出していた。
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シャルロッテは、モフモフを抱いて、テラスにやってきた。アルベルトを見つけると、いつものように満面の笑顔を浮かべた。
「アルベルト兄様! こんなところで何してるの? 寒くない?」
アルベルトは、すぐにいつもの完璧な笑顔を作り、妹を迎えた。
「シャルか。大丈夫。少し、頭を冷やしていただけだよ。霧雨も、時には心地よいものだ」
シャルロッテは、兄の隣にそっと座った。そして、兄の瞳を見た瞬間、彼女はハッとした。
アルベルトの瞳が、涙を流しているわけではないのに、ごくわずかに、虹色に光る水滴を湛えていたのだ。それは、涙の代わりに、アルベルトが抑圧した感情が魔力として過剰反応し、水分を結晶化させている、魔力体質特有の現象だと、シャルロッテは本能的に理解した。
(ああ、兄様が光の涙を流してる……)
シャルロッテは、兄を問いただしたり、泣いているのかと尋ねたりはしなかった。
言葉は、今の兄には重すぎる。
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シャルロッテは、そっとアルベルトの肩に寄りかかった。
そして、自身の銀色の巻き髪に、魔法をかける。
彼女は、風属性魔法でテラスに降る霧雨を優しく集め、自分の髪の表面に、小さな七色の光の雫として定着させた。光の雫は、兄の瞳に浮かぶ「光の涙」と同じ波長を放っている。
シャルロッテは、兄の腕に自分の髪をそっと押し付けた。
アルベルトは、妹の髪から伝わる、冷たい霧雨と温かい魔力、そしてモフモフのふわふわな温もりに包まれた。その瞬間、彼の中に抑圧されていた感情が、堰を切ったように解放されていくのを感じた。
シャルロッテが試みたのは、治癒魔法ではない。
それは、光属性魔法と水属性魔法を応用し、兄の孤独な感情と共鳴する波長を創り出すことで、「兄様は一人じゃない」という感情を共有し、涙という形を取らずに感情を発散させる、シャルロッテ独自の新しい治癒法だった。
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アルベルトは、目を閉じたまま、妹の頭をそっと撫でた。
誰にも見せないはずの光の涙を、この小さな妹が、何も言わずに理解し、共有してくれた。その深い愛と共感に、彼の心は震えた。テラスのアンニュイな霧雨が、心地よい安堵感に変わる。
「シャル……」
彼は、切なさと愛情が入り混じった、かすれた声で囁いた。
「お前がいるから、私は大丈夫だ。本当に、お前は……私の太陽だ」
シャルロッテは、顔を上げ、兄ににっこり微笑んだ。
「兄様が元気なら、わたしも嬉しいよ!」
その言葉と共に、アルベルトの瞳から光の涙は消え、テラスの霧雨も止んだ。雲間から、優しい夕焼けの光が差し込み、テラスを温かく照らした。
王位継承者の孤独な重責は消えない。しかし、妹の愛という確固たる支えがあることを再確認したアルベルトは、心身共に癒やされ、再び「完璧な王子」の笑顔を取り戻した。
シャルロッテは、言葉よりも深く、魂に届く治癒法で、大好きな兄の心を優しく守ったのだった。