第二百八十一話「パティシエの掌と、姫殿下の『匂いの記憶の書庫』」
その日の午後、王城のテラスは、雨上がり特有の、清々しく、しかし湿った空気に満ちていた。シャルロッテ姫殿下は、イザベラ王女、そしてエマと共に、焼きたてのレモンタルトを囲んでいた。
イザベラ王女は、自分の美しい掌を、タルトの香りにそっとかざした。
「このレモンタルトの香りは、究極の優雅さね。けれど、私には、『努力の匂い』が足りない気がするわ」と、イザベラ王女は、自身が社交界で華やかさばかりを求められることに、微かな違和感を覚えていた。
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シャルロッテ姫殿下は、イザベラ王女の言葉に、すぐに反応した。
「ねえ、お姉様。匂いはね、魔法の図書館なんだよ!」
「魔法の図書館?」
シャルロッテ姫殿下は、エマの、パン作りを手伝ったことで微かに残る「小麦粉と、温かい酵母の匂い」がする手を、そっと握った。
そして、シャルロッテ姫殿下は、風属性と時間魔法を融合させた。
彼女の魔法は、エマの掌から発せられる微細な匂いの分子を、「時間の流れ」に沿って解体し、その匂いが作られるまでの「物語」を、空間に光の粒子として映し出した。
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テラスの空間に映し出されたのは、エマが幼い頃、城下町のパン屋で父の手伝いをしていた、幸せな記憶。そして、夜中に一人でパン生地を捏ねる、ひたむきな努力の情景だった。匂いは、単なる分子ではなく、「愛と献身の記憶」として可視化された。
「わあ! エマのこの手はね、『温かい努力の匂い』がするよ!」
イザベラ王女は、その光景を見て、涙ぐんだ。彼女が求めていた「努力の匂い」は、華やかなサロンではなく、日常の、地道な労働に従事する掌にこそ宿っていたのだ。
「エマ、あなたの手こそ、究極のエレガンスだわ。私の華やかさは、あなたの地道な努力の上に成り立っているのね」
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シャルロッテ姫殿下は、次に、イザベラ王女の手にも、同じ魔法をかけた。
イザベラ王女の手から発せられたのは、タルトの香料や化粧品の匂いではない。それは、「外交文書に触れたインクの匂い」と、「舞踏会で、誰かを優しくエスコートされた時の、微かな革の手袋の匂い」だった。それは、王族としての、目に見えない献身の記録だった。
「ね、お姉様。お姉様のこの手はね、『優雅で、責任感の強い、愛の匂い』がするよ!」
イザベラ王女は、自分の「華やかさ」が、単なる装飾ではなく、「愛という名の、公的な義務」に裏打ちされていたことを知り、深い自己肯定感に包まれた。
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シャルロッテ姫殿下は、モフモフを抱き、にっこり微笑んだ。
「えへへ。だって、みんなの匂いはね、全部、その人の、頑張った物語だから、可愛いんだよ!」
姫殿下の純粋な哲学は、「匂い」という最も日常的な感覚に、「愛と献身の記録」という、深遠な美学をもたらしたのだった。




