第二百六十九話「教会堂の石の床と、研究者の『空っぽの問い』」
その日の早朝、王城の教会堂は、誰もいない静寂に包まれていた。マリアンネ王女は、教会の冷たい石の床の上で、「知性とは何か」という、究極の問いに、何時間も、ただひたすらに祈りと共に向き合っていた。
彼女は、思考を巡らせるごとに、知識が知識を呼び、頭の中が複雑な論理で満たされ、逆に「真理の核」が、遠のいていくのを感じていた。
「知性の探求は、なぜ、私を真のシンプルさから遠ざけるのだろう……」
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シャルロッテは、モフモフを抱き、その教会の静寂の中に、音もなく現れた。
彼女は、マリアンネ王女の抱える、**「思考の過剰さ」**という、知的な苦痛を感知していた。
「ねえ、お姉様。おしゃべりが多すぎるのかもしれないわ」
「おしゃべり? 私は、何も話していないわ、シャル」
「ううん、違うよ! お姉様の頭の中が、難しい言葉で、いっぱいなんだよ!」
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シャルロッテ姫殿下は、マリアンネ王女に、「思考の停止」という、最も困難な修行を提案した。
シャルロッテ姫殿下は、教会堂の、聖書の古い革表紙を手に取った。そして、マリアンネ王女に、その革の「冷たさ」「重さ」「匂い」だけを、「無心」になって感じ取るよう命じた。
「お姉様。考えるのは、おしまい。ただ、感じるの。この革が、どんな『今』を生きているかだけを」
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マリアンネ王女は、妹の助言に従い、革表紙に、全身の感覚を集中させた。彼女は、革の表面の微細な凹凸、過去の使い手の体温の記憶、そして、革という素材が持つ、静かな生命の存在を、思考を通さずに、直接受け取った。
シャルロッテ姫殿下は、その修行が深まった瞬間、光属性魔法を応用した。彼女の魔法は、マリアンネ王女の心の中の、「思考の渦」を消すのではなく、渦の中心に、完璧な「無」という、静かな空間を創り出した。
その「空っぽ」の瞬間、マリアンネ王女の頭の中の、すべての知識が、一度、無に還った。
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マリアンネ王女は、ハッと目を開けた。
彼女は、「思考が、真理を遮っていた」という、究極の真実を悟った。
彼女の目の前の世界は、言葉や論理から解放され、ありのままの、美しく、シンプルな姿として映し出された。
「シャル……私は、論理の壁の中で、真の知性を見失っていた。『無』こそが、『全て』だったのね」
シャルロッテは、にっこり微笑んだ。
「えへへ。だって、頭が空っぽの方が、可愛い発見がいっぱいできるでしょう?」
その日の教会堂は、「思考の停止」という、最も困難な修行を通して、「知性とは、愛によって、無に還ることである」という、温かい真理に満たされたのだった。
 




