第二百四十二話「古い譜面の余白と、王妃の『金色の小鳥の歌』」
その日の午後、王城の音楽室は、静かで、しかし張り詰めた空気に満ちていた。エレオノーラ王妃は、祖母の代から伝わる、古いピアノの譜面を前に、顔を曇らせていた。
譜面には、楽譜の要所要所に、ごく微細な、しかし重要な「音符」の欠落が見られた。
「この曲は、昔は最も美しかったはずなのに……。何かが、根本的に欠けている。しかし、その欠けた音符を、誰も思い出すことができないのよ」
王妃は、その欠落が、曲の美しさだけでなく、王家の過去の、大切な記憶までをも失わせているように感じていた。
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シャルロッテ姫殿下は、モフモフを抱き、譜面をのぞき込んだ。彼女の目には、その欠けた音符の場所が、「悲しくて、そこに留まることを選んだ、小さな心の余白」として見えた。
「ねえ、ママ。この曲、泣いているよ」
王妃は、娘の感性の鋭さに驚いた。
シャルロッテ姫殿下は、「失われた音」を、「音符」として補完するのではなく、「感情」として再生させることに決めた。
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シャルロッテは、譜面の欠けた部分に、そっと手を触れた。そして、光属性と風属性を融合させた。
彼女の魔法は、音楽室の空気を操作し、「音符」の代わりに、「王妃の祖母が、この曲を作曲し、演奏した時の、最も純粋な感情の音色」を、再現した。
それは、金色の小鳥の、清らかで、しかし情感に満ちた歌声だった。
その歌声は、楽譜の論理的な欠陥を無視し、愛の記憶という、より深い層で、聴衆の心に響き渡った。
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エレオノーラ王妃は、その幻の歌声を聞き、涙ぐんだ。彼女の心に響いたのは、失われた音符の正確さではなく、祖母がこの曲に込めた、揺るぎない、家族への愛だった。
「ああ、シャル。この歌声は、私が探し求めていた音符ではないわ……でも、これは、祖母の魂そのものよ」
王妃は、この歌声こそが、曲の「本質的な美しさ」であり、楽譜の欠落は、「演奏者に、愛を込めるための余白」であったと悟った。
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シャルロッテは、にっこり微笑んだ。
「ね、ママ。完璧な音符よりも、不完全でも、愛しい人の歌声のほうが、ずっと可愛いでしょう?」
王妃は、娘の哲学を受け入れ、その日以来、その譜面を「金色の小鳥の歌」と名付けた。そして、演奏する際は、「欠けた音符の場所で、心の中で小鳥の歌を聴くこと」を、王家の新しい伝統とした。
シャルロッテ姫殿下の純粋な愛と感受性は、論理的な欠落を、詩的な愛の創造へと変貌させたのだった。




