第二十四話「背伸びする天使と、クローゼットのてっぺんの赤いリボン」
その日の午後、薔薇の塔のシャルロッテの居室は、小さな静寂に包まれていた。
シャルロッテは、お気に入りの水色のドレスに着替えようとしていた。しかし、最後に髪を結ぶための「赤いリボン」が巨大なクローゼットの最上段の棚に置いてあったのだ……!
クローゼットは、城の調度品らしく、しっかりとした高さがある。シャルロッテの小さな背丈では、手が届くはずもない。
「うーん……」
シャルロッテは、腕を伸ばし、小さく背伸びをした。その指先とリボンの間には、まだ数十センチの隔たりがある。
通常ならば、専属メイドのエマに頼むか、あるいは浮遊魔法を使えば一瞬で解決する。しかし、この日のシャルロッテは、違った。
「ううん! これは、わたしがとるの! そう、自分の手で!」
五歳の王女の中に、小さな自立心が芽生えたのだ。彼女は、近くにあったぬいぐるみを置くための小さなミニチュア椅子に登り、再び背伸びを始めた。
「んーっ! えいっ!」
その仕草は、あまりにも愛らしく、見ていてじれったいほどだった。
◆
ちょうどその時、公務を終えたルードヴィヒ国王が、愛娘の顔を見ようと部屋に入ってきた。彼は、娘が小さな椅子の上で奮闘している姿を見て、反射的に「シャル、危ないぞ!」と声をかけそうになった。
だが、娘の真剣な横顔を見て、言葉を飲み込んだ。
『自分の力でやりたい』。その純粋な意志を、父として邪魔するわけにはいかない。
国王は、手を伸ばせば届くのに、ただ見ているしかできない「じれったさ」に身悶えながら、そっと壁の陰に隠れて見守ることにした。
◆
数分後、騎士訓練を終えた第二王子フリードリヒと、政務を終えた第一王子アルベルトが、国王を追って入ってきた。彼らも、壁の陰から、妹の愛らしい奮闘を目撃する。
「ああ、シャル! 危ない! 俺が肩車してやる!」
フリードリヒは衝動的に動こうとしたが、アルベルトに制止された。
「待て、フリードリヒ。見ろ、シャルの真剣な顔を。これは、我々の愛を試す試練だ」
「試練って……でも、あと少しだ! んーっ!」
フリードリヒは、妹が背伸びするたびに、自分も同じように背伸びし、心の中で大声で応援する。アルベルトも、冷静を装いつつ、妹の小さな指がリボンに近づくたびに、「ああ、もう少しだ!」と心の中で叫び、顔を覆った。
この間に、専属メイドのエマも部屋に入り、主人たちの状況を察知。浮遊魔法を使う準備をしながらも、愛しいシャルロッテの頑張りを最後まで見届けたいという「メイドの矜持」と、「お姉さんの情」のジレンマで、涙ぐんでいた。
◆
シャルロッテは、知らなかった。王国のトップたちと、最も優秀な騎士と、最も心優しいメイドが、皆、自分の一挙手一投足に注目し、苦悶していることを。
彼女は、ただひたすら、「赤いリボン」という目標を見つめていた。
「うーん……もう一回!」
小さな足を踏ん張り、最後の力を振り絞って、背伸びとジャンプを繰り返す。指先は、今度こそリボンに触れた。しかし、リボンはつるつると滑り、掴めない。
「もうだめ……」と、シャルロッテが諦めかけた、その時。
彼女は、もう一度、「ううん、頑張るの! シャルは頑張るんだから!」と自分を励ました。そのとき彼女の指先に、無意識のうちに洩れ出した虹色の魔力が集中した。
その魔力は、リボンにわずかな粘着性を持たせた(※変化魔法の応用)。
そして、最後の一押し!
最後のジャンプをしたシャルロッテの小さな指が、とうとうリボンをしっかりと掴んだ。
「やったー!」
シャルロッテは、満面の、汗だくの、誇らしげな笑顔を浮かべた。
◆
その瞬間、壁の陰に隠れていた国王、兄たち、エマは一斉に安堵の息を吐き、心の中で叫んだ。
(((((最後まで手を出さずに見ていてよかったー!)))))
ルードヴィヒ国王は、我慢の限界を超え、「我が宝よ!」と飛び出し、小さな椅子から降りたシャルロッテを、優しく、しかし力強く抱きしめた。
「よくやった! よく頑張ったな、シャル!」
「父上! ずるいぞ!」とフリードリヒも駆け寄り、アルベルトと共に、シャルロッテを三人で抱きしめた。
エマも、涙を拭いながら、リボンを髪に結んであげる。
「シャル様、おめでとうございます。ご自分で勝ち取ったリボンは、世界一可愛いリボンですわ」
シャルロッテは、家族全員からの温かい愛に包まれながら、達成感と幸福感を噛みしめた。
「えへへ。わたし、自分でできたよ!」
この日の小さな「リボン争奪戦」は、王族の間に、また一つ、愛らしくて忘れられない思い出を刻んだのだった。