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第一話「はじめての城下町と迷子の子猫」

 朝の光が薔薇色のカーテンを透かして、優しく頬を撫でる。ふわふわのベッドから身を起こしたシャルロッテは、小さな手で目をこすりながら、窓辺へと駆け寄った。


 城下町が朝靄の中で目覚めていく。石畳の道、煙突から立ち上る煙、市場へと向かう人々の姿。その光景を眺めながら、シャルロッテは胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。


 ――こんな朝を、ずっと夢見ていたんだ。


 ふと、前世の記憶が蘇る。


 グレーのスーツに身を包み、父の運転する車で大学へ向かう朝。窓の外を流れる風景は、いつも同じ灰色だった。


「蒼真、今日の面接の準備はできているだろうな」


 父の声は、質問ではなく確認だった。桐谷蒼真としての自分に張り詰めた緊張がみなぎる。


「はい、父上」


 そう答える自分の声も、感情のない機械音のようだった。本当は、ショーウィンドウに飾られた可愛いぬいぐるみが気になって仕方なかった。ふわふわの白いウサギ。抱きしめたら、きっと柔らかくて温かいんだろう。でも、そんなことは絶対口にできない。


「男らしくあれ。桐谷家の跡取りとして、恥ずかしくない人間になれ」


 幼い頃から、何度も何度も聞かされた言葉。

 愛情ではなく、縛り付ける規律。

 温もりではなく、過度な期待。

 息が詰まるような日々だった――。


「シャル様ー! 起きてらっしゃいますか?」


 扉の向こうから、エマの明るい声が聞こえて、シャルロッテは我に返った。


「起きてるよ、エマ!」


 返事をすると、扉が開いて、専属メイドのエマが朝食の準備を載せたワゴンを押しながら入ってきた。


「まあ、もうお目覚めだったのですね。今日は城下町へのお散歩の日ですから、張り切って起きてくださったのかしら?」


「うん! 楽しみで楽しみで!」


 シャルロッテは両手を組んで、目を輝かせた。

 エマは「まあ、可愛らしい」と頬を緩めながら、朝食の準備を始める。


 温かいミルクティー、焼きたてのクロワッサン、季節のフルーツ。こんな朝食を、誰かが笑顔で用意してくれる。それだけで、胸がいっぱいになる。


「エマ、今日はどのドレスにしようかな?」


「城下町ですから、動きやすいものがよろしいかと。でも、シャル様はどんなドレスもお似合いになりますから、お好きなものをお選びください」


 そう言いながら、エマはクローゼットを開けた。ずらりと並ぶパステルカラーのドレス。フリルやリボンがあしらわれた、どれも可愛らしいものばかり。


 前世では、黒かグレーか紺のスーツしか着られなかった。可愛い服を見るたびに、蒼真は外には絶対出せない心の中の嬌声を上げていた。でも今は――。


「じゃあ、この水色のにする! リボンが可愛いから」


「素敵な選択ですわ。シャル様の瞳の色にぴったりです」


 着替えを手伝ってもらいながら、シャルロッテは幸せを噛みしめる。ふわふわのペチコート、柔らかいドレスの生地、髪を結ぶリボンの感触。全てが愛おしい。


 ――ああ、女の子に転生して、本当に良かった。



 城下町への門をくぐると、シャルロッテの目の前に活気ある世界が広がった。


「わあ……!」


 思わず声が漏れる。市場には色とりどりの野菜や果物が並び、パン屋からは香ばしい匂いが漂ってくる。雑貨屋のショーウィンドウには、可愛らしい陶器の人形や、きらきら光るガラス細工が飾られている。


「シャル様、あまりはしゃぎすぎませんように。お手をどうぞ」


 護衛を兼ねた執事のオスカーが、優しく手を差し伸べた。シャルロッテはその大きな手を握り、市場を歩き始める。


「三女殿下だ!」


「まあ、なんて可愛らしい……!」


 町の人々が気づいて、次々と頭を下げる。でもその表情は堅苦しいものではなく、温かい笑顔だった。


「殿下、よろしければこの林檎を」


 果物屋のおばさんが、真っ赤に熟した林檎を差し出してくれる。


「ありがとう! でも、ちゃんとお代を払わせてね」


「まあ、お優しい……」


 前世の知識で、権力を振りかざすことの愚かさは知っている。それに、こうして対等に接してくれる人々の温かさが、何より嬉しかった。


 雑貨屋の前で足を止め、ショーウィンドウに見入る。小さなテディベアのぬいぐるみが、こちらを見つめていた。


「……可愛い」


 思わず呟いた瞬間、細い鳴き声が聞こえた。


「にゃあ……にゃあ……」


 振り返ると、路地の奥から子猫が現れた。真っ白な毛並みに、青い瞳。首には赤いリボンがついている。


「あら、猫ちゃん?」


 シャルロッテがしゃがみ込むと、子猫は警戒するように一歩後ずさった。でも、その目は不安そうで、どこか寂しげだ。


「シャル様、野良猫かもしれません。お気をつけて」


「ううん、違うよ。この子、首にリボンをつけてる。きっと誰かのペットなんだ」


 前世で培った観察力が働く。リボンは綺麗で、毛並みも手入れされている。迷子になったばかりなのだろう。


「ねえ、君、おうちがわからなくなっちゃったの?」


 優しく声をかけると、子猫は悲しそうに鳴いた。


「にゃあ……」


「よしよし、大丈夫。一緒におうちを探してあげるからね」


 シャルロッテは立ち上がり、周囲を見回した。城下町は広い。でも、この子のような綺麗な猫を飼っているのは、きっとそれなりの家のはずだ。


「オスカー、このあたりで猫を飼っている家を知ってる?」


「さようですな……。確か、大通りの仕立て屋のご主人が、白猫を可愛がっていたと聞いたことがあります」


「それだわ! 行ってみましょう」


 子猫を抱き上げようとすると、すんなりと腕に収まった。温かくて、ふわふわで、小さな心臓がどきどきと鳴っている。


「可愛い……」


 思わず頬を寄せると、子猫が小さく喉を鳴らした。


 仕立て屋へ向かう途中、シャルロッテは子猫に話しかけ続けた。


「怖かったよね。でも大丈夫。すぐにお母さんに会えるからね」


 その光景を見ていた町の人々が、優しい目で微笑んでいる。


「三女殿下は、本当にお優しいお方だ」


「ああ、見てごらん。あの笑顔を。まるで天使のようだ」


 そんな囁きが聞こえてくるが、シャルロッテは子猫に夢中で気づいていなかった。



 仕立て屋の扉を開けると、ベルが軽やかに鳴った。


「いらっしゃいませ――あっ、三女殿下! これはこれは!」


 店主の初老の男性が、慌てて頭を下げる。


「こんにちは。あのね、この子、もしかしてあなたの猫ちゃんじゃないかなって思って」


 抱いていた子猫を見せると、店主の目が見開かれた。


「ミルク! ミルクじゃないか! ああ、どこへ行っていたんだ!」


 店主は子猫――ミルクを受け取ると、涙ぐみながら抱きしめた。


「朝から姿が見えなくて、妻と二人で町中を探し回っていたんです。殿下、本当にありがとうございます!」


「良かった。ミルクちゃん、おうちに帰れて」


 シャルロッテは、ミルクの頭を優しく撫でた。ミルクは嬉しそうに鳴いて、シャルロッテの手を舐めた。


「殿下、何かお礼を……」


「ううん、大丈夫。ミルクちゃんが無事で、それだけで嬉しいから」


 でも店主は奥から、小さな布製のテディベアを持ってきた。


「これは妻の手作りです。どうか、受け取っていただけませんか」


 それは、さっきショーウィンドウで見たぬいぐるみよりも、もっと温かみのある、手作りのぬいぐるみだった。


「……いいの?」


「ええ、ぜひ」


 シャルロッテは、大切そうにそのテディベアを抱きしめた。


「ありがとう。大切にするね」



 帰り道、シャルロッテは新しいぬいぐるみを抱きしめながら、城へと向かった。


「シャル様、とても良いことをなさいましたね」


 エマが優しく微笑む。


「うん……でもね、エマ。わたし、ただ当たり前のことをしただけだよ」


 前世では、こんな些細な優しさを示すことさえ、許されなかった。

「無駄なこと」「感傷的」と切り捨てられてしまう世界。

 でも今は違う。


 ――わたしは、わたしの心のままに、優しくできる。


 夕日に染まる城下町を振り返りながら、シャルロッテは心の中で呟いた。


 神様、ありがとう。

 この世界に来られて、本当に良かった。


 薔薇の塔に戻ると、夕食の時間だった。家族全員が揃う食卓で、シャルロッテは今日の出来事を嬉しそうに話した。


「それでね、ミルクちゃんったら、わたしの手をぺろぺろって舐めてくれたの!」


「まあ、シャル。相変わらず優しい子ね」


 母のエレオノーラ王妃が、慈愛に満ちた目で微笑む。


「さすがは我が妹だ。町の人々に愛される王女とは、こうあるべきだな」


 第一王子のアルベルトが、誇らしげに頷いた。


「シャル、今度わたしも一緒に城下町に行ってもいい? その猫ちゃん、見てみたいわ」


 第一王女のイザベラが、きらきらした目で言う。


 家族の温かい視線に包まれて、シャルロッテは幸せを噛みしめる。


 ――こんな毎日が、ずっと続きますように。


 手作りのテディベアを抱きしめながら、シャルロッテは小さく微笑んだ。


 これが、わたしの新しい人生。


 可愛いものに囲まれて、優しい人々に愛されて、自分らしく生きられる、素敵な毎日。


 これからもずっと続く幸福な日々。

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