第一章
何度、電車が僕の目の前を通過しただろう。その度に熱風が僕の頬を叩く。蝉の鳴き声、ホームのアナウンス。どっと流れ込む人が暑さに拍車をかける。
タオルで汗を拭い、ぬるくなったポカリを飲み干し一息。女子高生に話しかける。ルーズソックスに黒焦げの肌、目のまわりは真っ白なパンダメイク。髪はピンクや青やらが混じったボサボサヘア。ひと昔前のギャルだ。
「あのー、千里さん」
「・・・・。」声を掛ものの、僕の呼び掛けに応えない。
「まもなく一番線に電車が参ります。黄色い線より下がってお待ち下さい」と言うアナウンスと共に遠くの方から電車がホームにやってくる。彼女は迷いもせず、線路内に飛び込む。電車は急停車することなく彼女を轢き殺す。表現しきれない音と電車の音が入り交じる。
これで、何度目だろう。
何もかもが嫌になり、僕は自宅マンションのベランダに居た。ベランダといっても最上階、屋上をベランダと僕が勝手に呼んでいるだけなんだけれど。死に方は色々あった。練炭、薬、首つり、飛び込み、飛び降り。多分人生で一番考えたんじゃないかな。自分のことについて。さんざん悩んだ挙げ句、一番自分に合った死に方はコレだと考え、遺書を書いて靴を揃えて今ここにいる。空を見上げる。東京の空には星が無い。きっと、現実もそんなもんだろう。そこにあっても無いとされるって事が。
あっけなかったな、なんてこの場に及んで思う自分が少し可笑しくて。
一呼吸、そして足を一歩踏み出した。そしたら死ねるハズだったんだ。
「・・・バイトしないか?」と声をかけられなければ。
「ムクイ…屋?」
「そう、報い屋。俺達の仕事は単純明快。誰かを報いる仕事さ。」
「はぁ。」
薄暗く雑然とした小さな事務所の椅子に腰掛けて、口が少し欠けた湯飲みがボンヤリと天井を映し出す。何故、僕はここにいるのだろうとぼんやり考えながら出されたお茶をただじっと見つめる。
「報いって知ってる?」
「知ってるって・・・何をですか?」
多分、初めて彼の顔を良く見た。シルバー色の縁眼鏡をかけた、黒髪の男。
「だから、報いについて。」
「恩を仇で返す、みたいな?」
「んー。まあそんなもんかな。つまりさ、相手が自分に何かしらの事をしたり、してくれたりするだろ?それをそれ相応のもので返すってのが報い。良い事をしてくれたら良い事で返すし、その逆も然り。で、君にその“お返し”を依頼主の代わりにやって欲しいんだ。」
そういって男は名刺を差し出した。『報い屋 社長 磯 祐太朗』白地に黒い名刺。赤い蝶と林檎が描かれている。
「変わった苗字でしょ。日本で1000位以内に入ってないんだって」
「はあ」
「それで給与は案件によりけり。安いものだと一件数千円、高いものだとウン百万。稼ぎたいなら高額なものを用意するからその都度言ってくれればいいよ。」
「いや、いきなりそんなこと言われても・・・」
「ごめんごめん、仕事内容言ってなかったね。そうだなー・・・例えばこの案件なんかどうだろう?君にもきっとできるよ。」そういって磯は紙を僕に寄こした。
「期限はないから、君のペースでやるといいよ。あとここでは私の事を社長って呼んでくれればいいから。そういえば君の名前は?」
「えっまだ働くなんて一言も・・・」
「名前は?無いの?名前。」
「・・・浦津 美っていいます。」
「へえ浦津、君も変わった苗字だね。まあ苗字の話はいいとして、この仕事、君に向いていると思うんだよね。だから誘ってみたし、仮にやってみてつまらなかったらさっきみたいに飛び降りるなりして死んでくれて構わないからさ。それじゃ、後はよろしくね。」
男は言いたいことだけ言って奥の部屋へと消えていった。僕はただただ、目の前の紙を見つめることしかできなかった。
◆◇◆
事務所に着いた頃には既に辺りは暗くなっていた。相変わらず薄暗い事務所。でも恐怖や薄気味悪さは感じない。きっとそれは、お婆ちゃん家に似ているからであろう。
「どうだった?」
「僕には無理です。」
「そう?」
社長は僕の顔をチラと見るなり直ぐに視線をパソコンへと戻した。せわしくタイピングする音が静かな事務所に響き渡る。
「本人には会えたの?」
「一応。でも話しかけても見向きもされませんでした。」
「まあいきなり知らない人に話しかけられたら誰でもシカトするよね。まあ会えただけでも上出来じゃない?初日にしては。明日も行ってきなよ。何日か通い続ければ彼女もきっと心を開くから」
「そんなこと、てか色々とおかしいですよ、こんなこと。何で死んだ人が見えるんですか?僕も変な人だと思われますよ。何時間も駅のホームにいて、何も無いところ向かって話しかけるなんて。」
「まあ一度死にかけた人間だからね、君は。そういうモノが見えるようになってもおかしくないんじゃない?そういえば君って学生?」
「はい。いや、そんなこと今はどうでも・・・」
「学校は?」
「今、夏休み中ですから、じゃなくて聞いてます?社長!」
「そう怒鳴らないでよ。はい、これ今日の分。うち、日払い制だから。また明日来てよ。そんじゃお疲れさん」
社長は茶封筒を僕に差し出した。完全に向こうのペース。僕は茶封筒を受け取るなり直ぐに事務所を出て行った。ドアを叩き閉めて。
夏の虫が夜の暑さを和らげる。このままバックレて死のうかな、なんて思ったけれど茶封筒の中身をみて少し思いとどまった。別にお金が欲しい訳じゃないけど、湯水のようにお金を使ってから死ぬのも悪くないかな、なんて欲が出ただけで。僕の死ぬ理由なんて漠然としたものだから、死なない理由もそんなもんでもいいんじゃないかって誰かに言い訳をする。
明日も渋谷駅。ポカリ、凍らせて持って行こう、っと。