07.
「待ってください!マーサさん!」
ウキウキとした足取りで門に向かって歩いていると、可愛らしい声で名前を呼ばれた。
鈴の音を転がす声とはこういう声を指すのだろう。
胸がキュンとするような声だった。
「フィオーレ様……?」
思わず振り向くと、駆け寄ってきたのはフィオーレだった。はあはあと息を切らすフィオーレは、一生懸命な女の子といった感じでとても愛らしい。
マーサはフィオーレの息が落ち着くのを待ちながら、彼女を静かに眺めた。
こうして実際にフィオーレの顔を見ると、この世界一美男のカシアンが、この世界一美女のフィオーレに運命を感じる気持ちが分かる気がした。誰だって彼女を見れば恋に落ちてしまうだろう。
いっときはカシアンを本気で愛してしまったが、そもそもマーサは、カシアンとフィオーレが結ばれる世界に憧れていたのだ。
忙しい日々を送るうちに、(憧れのストーリーが始まっただけだわ)、(収まるべき所に収まったという事よね)と、いつの間にか現実を受け入れていた。
「イークチィ伯爵令嬢のマーサさんですよね?私はオルコット男爵家のフィオーレです。私、マーサさんにずっと謝りたくて………。
カシアンと出会った時に、彼が「僕達はもっと早くに出会うべきだった」って言ってくれたんだけど、私も本当にそうだったと思うんです。出会った順番が悪かったせいで、マーサさんに婚約解消までさせてしまった事、本当にごめんなさい」
ケンカを売りに来たのかと思うような言葉だが、美しい顔に翳りを見せて眉を下げるフィオーレに、悪気はないのかもしれない。涙で潤んだ大きな瞳が、キラキラと宝石のように輝いている。
モヤッとさせられる言葉ではあるが、間違いではないので、マーサは淑女らしく微笑んでおく。
マーサの微笑みにホッとした顔になったフィオーレが、無邪気な笑顔で言葉を続けた。
「カシアンがマーサさんに贈った指輪とドレスも、譲ってくれてありがとうございます。
この指輪、本当に素敵ですよね。月の光に当たるとキラキラ光って、神秘的ですごく綺麗なんですよ。カシアンも「フィオーレみたいだ」って褒めてくれて………ちょっと恥ずかしいです。カシアンって少しキザですよね。
カシアンの色のドレスも、この前の舞踏会に着ていきました。私は華奢なので、ドレスのウエストがこんなに余っちゃって。詰め直しの準備でバタバタしちゃいました」
「こんなに」と、親指と人差し指を精一杯広げながら、えへへと人懐っこい笑顔で笑うフィオーレに、悪意はないのかもしれない。
だけどその言葉は完全にマウントを取る女子の言葉だ。
マーサは淑女の微笑みを崩さずに言葉を返した。
「………そうですか。お幸せそうで何よりです。ではそろそろ失礼しますね」
マンガの中では天真爛漫で天然なフィオーレが、とても可愛らしいと思っていた。だけど天真爛漫と天然が過ぎると、無礼者になるらしい。
(ここは一刻も早く去るべきね)と背中を向けようとしたマーサに、フィオーレが慌てて言葉をかける。
「あ!待ってください。私、マーサさんと仲良くなりたいんです。淑女の中の淑女だと言われいるマーサさんに、私ずっと憧れてて……私はマナーがなっていないって言われちゃうし、流行にもうといので、色々教えてもらえませんか?お友達になってください」
「……………………」
微笑むしかなかった。
微笑むしかないマーサにフィオーレが言葉を重ねていく。
「そうだ。今度みんなで遊びに行きませんか?カシアンのお友達も、カシアンに似て素敵な人が多いんですよ。マーサさんに紹介させてください。次の舞踏会はまだ先だけど、きっとマーサさんの素敵なパートナーさんになってくれると思うんです」
「フィオーレ!ここにいたのか。マーサと一緒だったんだね」
「カシアン!」
この無礼者をどうしてやろうかとフィオーレを眺めていたら、カシアンがフィオーレを見つけて駆け寄ってきた。
カシアンの顔を見るのは、別れを告げられた時以来だったが、マーサの心はもうカシアンを見ても揺れ動く事はなかった。彼はもう、マーサにとって完全に過去の人になっていた。
見つめ合う二人に、これで退散できそうだとホッとする。無礼が過ぎると迷惑者になるようだ。
これ以上、フィオーレにもカシアンにも関わりたくはない。
「フィオーレ様。せっかくのお話ですが、私も忙しい身ですし、全てご遠慮します。私のパートナーの心配までしてくれてありがとうございます。
でも私は、婚約者がいながら他の女性に「僕達はもっと早くに出会うべきだった」と話すような不誠実な男性は信用できないのです。不誠実な方と似ているお友達を紹介されても、きっと同じ事を繰り返されるだけでしょう。
では私は護衛に付いてくださっている方をお待たせしているので、失礼します」
マーサのフィオーレへの言葉は、カシアンへの言葉でもある。「お前そんな事を言ってやがったのか。騎士のくせに不誠実な男だな」と言外に伝えてやる。
「え?あ、いや。マーサ――――ごめん。でもマーサが大切な人だって事は、今でも―」
「ごめんなさい。本当にそろそろ行かないと。外でお待たせしている人がいるのです」
マーサの言葉は本当だ。
護衛はパーティー会場に入れなかったので、今日マーサの護衛になってくれているダリルは、門の外で待っているはずだ。
未来の騎士団長をあまり待たせたくはない。
「外で待っている人って、もしかしてさっき外で見かけたダリル様?………マーサ。こんな事言いたくないけど、ダリル様には近づかない方がいい。マーサの評判を落とすだけだ。
ダリル様は剣の実力者ではあるけど、レドモンド公爵の愛人の子なんだよ。彼は庶子という立場なのに、前の剣術大会で、レドモンド公爵家次男の騎士団長のオーツ様を打ち負かしたんだ」
「まあ!そんなにもお強い方が護衛に付いてくださっているなんて、本当に心強いですわ!」
「マーサ、君は騎士じゃないから知らないかもしれないけど、庶子の立場で嫡子の上に立とうとするのは身の程知らずと言われるものなんだよ。正統な血筋を越えるなど、秩序を乱す神にも背く行為なんだ」
ぱあっと顔を明るくさせたマーサを諭すカシアンの言葉は、この世界では一般的な常識だ。マーサだって知っている。
アシュリーが第三王子でありながらも目立たない立場にいるのは、彼も嫡子ではなく庶子という立場にいるからだ。
だけどアシュリーは近い将来国王となる人物だし、ダリルだって騎士団長に成り上がっている。後にこの国は実力主義に変わるのだろう。
今マーサの力になってくれている二人がそれぞれの頂点に立つなら、ぜひとも応援したい。
「私は騎士様は誠実であってほしいと思っています。実力があるのに、それを隠す方が不誠実ではないでしょうか。
慣例を破る事は勇気が必要だった事でしょうから、きっとダリル様は、勇気がある誠実なお方なんでしょうね。とても素敵なお話を教えてくれてありがとうございます」
言いたい事は言い切ったと、マーサは二人にお別れのための会釈をする。
「あ!待ってマーサ!ファータルーナ鉱山の事だけど、月の花が採掘されているみたいだね。
こんな事を言える立場ではない事は分かっている。―――だけどお願いだ。一部だけでも返還してもらえないだろうか。あの鉱山は、僕の愛する祖母から受け取った、思い出のある鉱山なんだ」
去ろうとするマーサに、焦ったようにカシアンが声をかけた。
なんの価値もないと思って渡した鉱山から、希少価値の高い月の花が採掘されたのだ。会った時にはそう言われるだろうなと思っていた。
マーサは用意していた言葉を迷いなく伝える事にする。
「もちろんです。元々何もないと思っていた鉱山ですもの。一部どころかほぼ全てお返しするつもりです」
「マーサ………!そんな風に言ってくれて嬉しいよ。君は僕の誇りだよ。本当に素晴らしい女性だ」
顔を輝かせたカシアンに、マーサは微笑んだ。
「ありがとうございます。何もないはず場所に月の花が発見されたのは、神様からの贈り物だと思っています。月の花で得た利益は、ほぼ全て寄付という形で、神様にお返ししているのですよ。
カシアン様も、世の中の多くの人が助けられる事を望んでくださるのですね。さすが高潔な騎士様ですわ」
「え?―――あ、ああ」
マーサはほほほと淑女の微笑みを浮かべながら、カシアンに期待させるだけ期待させて落としてやった。
この世界は強い者が勝ち残る世界に変化していくのだ。
(やってやったわ!)とガッツポーズしたい気持ちを抑えて、「では失礼いたします」と二人に背を向ける。
門に向かう足取りは、フィオーレに声をかけられる前より軽かった。