05.
涼しい顔でサラサラと数字を書き連ねていく彼は、エバンス侯爵が「きっとマーサ嬢のお力になれるはずですよ」と紹介してくれたアシュリーという名の男だ。
エバンス侯爵にとって孫のような者らしい。
「そうですね。ひとまずこのくらいの額を王妃様に提示されてはいかがでしょうか。
―――ああ。交渉はこちらの方で任せてください。必ず契約を結んでみせますよ」
流れるように優雅な筆跡で描かれているゼロが、あまりにも多い。
「あの……アシュリー様。ゼロの数が少しおかしいのではないかと……」
マーサ名義で立ち上げる商会だ。あまり強欲な商売をしてほしくない。マーサが恐る恐るアシュリーに言葉をかけると、彼はにっこりと微笑んだ。
「さすがマーサ嬢。もう一つくらいゼロを付け足してもいいかと、私も思っていたところですよ」
「いえ、そうではなくて………」
思いが通じず困ってしまい、エバンス侯爵の顔に視線を向けると、エバンス侯爵が満足そうな笑顔で頷いた。
「そのくらい強気で行った方が、月の花の希少価値が上がるというものです。これからマーサ商会は伸びて行きますな」
はははと笑うエバンス侯爵が楽しそうだった。
「そうですよね」と応えたアシュリーが、流れるような美しいゼロの数字を一つ書き足した。
少し考える仕草を見せた後―――もう一つゼロを足す。
エバンス侯爵が彼との間柄を表現した、「孫のような者」という関係は嘘ではないだろう。
二人の親しげな様子がそれを物語っている。
だけどマーサは、アシュリーがこの国の第三王子で、後に国王となる事を知っている。
アシュリーの顔と髪色に見覚えがあった。
間違いない。
完全フルカラーのマンガだったのだ。
数え切れないくらいに読み返したマンガの中で、確かにアシュリーの特徴的な髪色――夜空を思わせる紺色の髪に銀髪の筋が入っている者がいた。彼の整った涼しげな顔立ちにも見覚えがある。
銀色の筋の入る髪色は今の国王の色だ。現国王は、空色の髪に銀の筋が入っている。
〈恋する月の花〉の初期の頃の舞踏会シーンでは、国王と同じ髪色をした第一王子と第二王子から、彼は離れた場所に立っていた。
だけどエンディングの舞踏会シーンでは、アシュリーは新国王として玉座に座っていた。
現在の王と、第一王子と第二王子に何があったのかは分からないが、彼は後に国王になるはずの者だ。
彼を紹介された後に調べて分かった事だが、アシュリーにとってエバンス侯爵夫人は、母方の祖母の妹で大叔母に当たるらしい。
エバンス侯爵が彼を「孫のようなもの」と話していたのは、大まかには当たっていると言えるだろう。
「王妃様の次は、第一王子様と第二王子様にも販売を持ち掛けてみませんか。―――そうですね。それぞれこのくらいは支払えるのではないでしょうか」
「アシュリー、なかなかいい数字だな」
政権を握るための何か思惑があるのかもしれない。
アシュリーとエバンス侯爵が、王子達からも大金を巻き上げようとしていた。
マーサは楽しそうに数字の相談をする二人から、アシュリーの側に控える男に視線を移す。
男の事は、「護衛のダリルです」と簡単に紹介されただけだったが、マーサは寡黙な彼がレドモンド公爵の愛人の子だいう事実を知っている。
彼もやっぱり〈恋する月の花〉で見かけた人物だった。
ダリルの登場シーンは、エンディングの舞踏会でフィオーレを連れたカシアンが、ダリルに挨拶をするシーンだけだった。
彼の登場はたった数コマだけだったが、カシアンより頭一つ分くらい背が高く、がっしりとした体格で、鋭い目をした彼はとても印象的だった。
並んだ三人を見て、「美貌の騎士カシアン様と一緒にいる人って、今度騎士団長になったダリル様よね。怖そうな人だと思わない?あの人って剣の実力者だけど、レドモンド公爵様の庶子なんですって」「生まれに問題があるダリル様より、副団長のカシアン様の方が、団長に相応しいと思わない?」と、令嬢達が噂していた。
現在の騎士団長はレドモンド公爵家次男のオーツ様なので、エンディングの舞踏会までに、騎士団内でも権力の交代に至る何かがあったのだろう。
(あの時のカシアンは副団長だったから、ダリル様は後にカシアンの上司になるのね)
〈恋する月の花〉の裏側を見るようで、アシュリーもダリルも、マーサにとって興味深い人だ。
高貴な人達ではあるが、後に成功すると分かっている人が側に付いていてくれる事は、なかなか心強かった。
王妃達に売りつける販売価格も決まり、お茶をしながら話題に上がったのは、マーサについてだった。
「以前からマーサ嬢の噂は聞いていましたよ。才色兼備で、淑女の中の淑女だと。その上ボランティアにまで力を入れているそうじゃないですか」
お茶を飲みながら話すエバンス侯爵の話は、社交界で噂される一般的なマーサの評価だ。
美人と言われるマーサだが、この世界はキラキラした少女マンガの世界で、そもそも不美人などいない。皆が皆、そこそこの美人なのだ。
かくいうエバンス侯爵も渋いイケおじだし、アシュリーもダリルも系統は違うが顔は整っている。皆そこそこに顔が良い。
そしてマーサが勤勉だったのは、オタク心から来る学びの心だ。
ボランティアに力を入れているのは、前世病弱だった自分を見ているようで、病気の人に手を差し伸べずにいられなかっただけだ。
実は全てそれほど大した事ではない。
マーサは淑女らしく曖昧に微笑んでおく。
「一目マーサ嬢を見たいと願う男も多いと聞いてますよ。でも舞踏会もお茶会もほとんど顔を出す事がないし、恋文を送っても誰にもなびかないという話ですよね」
アシュリーが話す、マーサの噂話も事実だ。
〈恋する月の花〉の始まりを楽しみにしていたマーサは、自分の恋はカシアンとフィオーレの恋を見届けた後でと決めていた。
自分の恋にうつつを抜かしている間に、貴重なシーンを見落としたくなかったからだ。
それに人生二周目のマーサは、同世代の子達は幼く感じてしまう。ノリが合わせられず、お茶会などは、イベントに騒ぐ子供達を見るようで疲れてしまうだけだった。
マーサは淑女らしく曖昧に微笑んでおく。
「それなのに「勇敢な女神」が、マーサ嬢だったと聞いた時は、本当に驚きましたよ。エバンス侯爵様からもずっと、「あの火災の中、頼もしい女性に助けられた」と聞いてましたからね。
マーサ嬢は、近くのカフェにいる時に火事に気がついて、すぐに救助に駆けつけたのでしょう?。「あの日窓の外を見ていたご令嬢が急に立ち上がって、店を飛び出したと思ったら、火災が広がっていたんです」と、カフェのスタッフが話してましたよ」
続くアシュリーの言葉に、マーサはギクリとする。
誰にも話してないはずの、「火災前に近くのカフェにいた」という事実が調べられていた。
それはマーサが野次馬だったという事実だ。
「こんなに素晴らしい女性を捨てて他の女に走るなど、ブレイズ伯爵家の四男は本当に愚かな男ですな。
婚約解消に多くの慰謝料を請求してもいいところを、廃坑のファータルーナ鉱山にするなんて、マーサ嬢も謙虚が過ぎるという噂でしたが……。月の花の発見は、無欲なマーサ嬢への神からの祝福だったのでしょうね」
エバンス侯爵がしみじみと語る話に、アシュリーが良い話を聞いたかのように頷いていた。
ここまで誤解されると、さすがにマーサの胸が痛む。
マーサはカフェで火事見物をしようとした野次馬であり、莫大な資産となるファータルーナ鉱山をカシアンから奪った強奪者だ。
神の祝福を受けるような者ではない。
それにあまりに良い人だと思われたくはない。
イメージの暴落を招きやすいし、良い人は騙しやすいと狙われる事もある。
――マーサの父、イークチィ伯爵のように。
この辺で「私は俗人ですよ」と主張しておくべきだろう。
「あの……誤解です。私は月の花の発掘を見越して、カシアン様に要求したんです。
過去に月の花が発見された地質を調べた事がありまして、ファータルーナ鉱山にその可能性を見ただけなのです。願いが叶うという三日月の夜が、発見されやすいという情報も得てましたから」
月の花について、マーサはオタク心で徹底的に調べ学んでいた。過去に発見された月の花の地質を調べると、ファータルーナ鉱山と全く同じだったのだ。
学会で発表できるほどの発見だったが、オタク心が満たされて十分満足できた発見でもあった。
「前世から知っていたから」とは言えないが、「可能性は十分に見ていた」と伝えても嘘はないだろう。
ほほほと淑女らしく笑いながらマーサが真実を暴露すると、三人の男達が驚いた顔になった。
それでいい。
好感度は適度に落としておくのが正解だ。