04.
《三日月が淡く光る夜、ファータルーナ鉱山で幻想的に輝く月の花が発見された》
〈恋する月の花〉のエンディング近くのストーリーで、たった一文で書き表された言葉の通り、マーサは三日月の夜にファータルーナ鉱山開発に乗り出した。
「夜中に廃鉱山の採掘を始めるなんて、マーサは婚約解消の悲しみで気でも触れたか」と心配されるのが嫌だったので、両親にも内緒で始めた採掘だった。
(初めて月の花が発見されるのは、カシアンとフィオーレが結ばれた後だったから、あとニ年くらいはかかるかも。効率よく、三日月の夜にだけ探してもらおうかな)
そう考えて指揮を取った採掘だったが、驚く事に採掘を始めたその夜に月の花は地中から掘り出され、三日月の下で幻想的な輝きを見せた。
まさかこんなにも順調な滑り出しを見せるとは想像もしていなかったマーサは、急いで希少な石の販売を託せる商会を探す事にした。
希少な月の花は、マーサの家のイークチィ伯爵家では、到底対応できないほどの価値を持った石になる。人のいい父親が悪徳商会に騙されないか不安もあった。
ファータルーナ鉱山の話は、カシアンの成功を表すために、エンディング近くでサラリと語られたストーリーだ。
(何か販売のヒントになる情報はなかったかしら?……確かカシアンはある商会に独占販売させたような……?)
コアな〈恋する月の花〉のファンだった雅子さえも見逃すところだった情報を、マーサは記憶の糸を手繰り寄せて、なんとか思い出した。
《発掘された希少価値の高い月の花は、信頼できるピエトラ商会を通じて世に出す事を決めた。ピエトラ商会長は高貴な身分を隠した若い男だが、カシアンにとって信頼でき得る人物だった》
サラリと書き流された文章の中に、ピエトラ商会の名前があった。
(商会長が「身分を隠した高貴な者」だなんて、続編の匂わせっぽくない?カシアンとフィオーレの続きがあるかも!)と、雅子だった頃に期待した記憶がかすかに残っていた。
その記憶があって、マーサは迷わずピエトラ商会を訪れたのだ。
実際に商会に足を運ぶと、「身分を隠した高貴な者」が運営しているはずのピエトラ商会は、全く隠された要素は見られず、街の大通りに堂々と立ちそびえていた。
とても大きくて立派な建物だった。
小娘のマーサが訪れるような場所ではないが、(女は度胸!)とドキドキする気持ちを抑えながら商会の扉を押すと、「どのようなご用件でしょうか」と迎え入れてくれた男に見覚えがあった。
「………?」
どこかで見たことがある顔だ。
小柄でぽっちゃりしていて、前世で見た、白雪姫の小人を思い起こさせるような見た目の男。
絶対にどこかで会った事がある。
だけどどこで会ったか思い出せない。
(一度会ったら忘れる事がない人なのにな……)
ひとしきり悩んで、「あ」と声が出た。
何も言わずに男を眺めるマーサを、訝しげに見ていた男の方も、マーサを思い出したようだ。
男の顔に驚愕の色が走った。
「あなたは……!あの時の方ですよね。あの火事で―」
「シッ!―――お願いします。それ以上その話はしないでください。
あの、違うんです。私は商会長にご相談があって、こちらへ参らせていただいたのです」
マーサは急いで自分の口に人差し指を立てて、「それ以上何も言わないで!」とゼスチャーすると、マーサの勢いに押された男が口をつぐんだ。
小柄な目の前の男は、あの劇場火災の現場に居合わせた男だ。
足の悪い奥様を支えた高齢の夫婦を、真っ先に外に誘導した時に、血相を変えて駆け寄ってきた男だった。
奥様に肩を貸し、外への避難に付き添って、男に夫妻を託してから、またマーサは劇場に戻ったので、マーサが男と顔を合わせたのは外に出た一瞬だった。
だけど男もマーサの顔を覚えていたようだ。
口をつぐんだ男が、何も言わずに静かに微笑んだ。
マーサの思いは通じたらしい。
それでいい。
本当に火事の話題を口に出されては困るのだ。
実はマーサには秘密がある。
それは今世間を騒がせている、「勇敢な女神」と噂される少女の正体が、マーサだという事だ。
あの火災で鮮やかな指揮を取り、観客全員を無事に避難誘導した勇敢な少女は今、この国の女神のように崇められている。
混乱した劇場の火災の場に風のように現れて、多くの命を救ったにも関わらず、名も名乗らず風のように去った少女。
多くの人がその少女に助けられたはずなのに、誰の記憶にも残っていない、謎のある人物。
謎を残す事で神秘性が高まり、いつしか名付けられた「勇敢な女神」は、もはや伝説となりそうな勢いだった。
混乱を極めた闇が広がる劇場の中で、伯爵令嬢のマーサを認識した者はいなかった。
すぐに照明が落ちた事で、この世界では特徴的なマーサの黒髪は、暗闇が隠してくれたようだ。
劇場に飛び込んだ瞬間は、劇場スタッフはマーサの顔を見る事が出来たはずだが、あまりにも堂々と指揮を取るマーサの声に、劇場の関係者だと思われたのかもしれない。スタッフ達はマーサの出す指示に動いただけで、マーサの顔は誰の記憶にも残らなかった。
マーサは、絶対に何があっても「勇敢な女神」がマーサだとバレたくはなかった。
「勇敢な女神」などという通り名に喜べる訳がない。
男だったら国の英雄にもなれるところだが、火が燃え盛る劇場内を走り回ったなんて、淑女と言われるマーサには不名誉な通り名になるだけだ。
バレたいはずがない。
それに火災が起こるのを知っていながら、最初はカフェで劇場を眺めていた野次馬だ。皆に褒め称えられる資格などないだろう。
あの時カシアンに助け出されたマーサは、ただの逃げ遅れた観客の一人と見なされている。
だからあの日の事は、カシアンにさえ打ち明けた事はない。
誰も知らない秘密なのだ。
「すぐに商会長室にご案内しましょう」と案内された部屋には、あの火災現場でいち早く救助した高齢の男が座っていた。
顔を見た瞬間に、彼が数々の事業を成功させている、やり手のエバンス侯爵だとマーサは気がついた。
〈恋する月の花〉の中では、「ピエトラ商会長は高貴な身分を隠した若い男」と語られていたが、エバンス侯爵は高齢のおじいさんだ。
(もしかしたら原作では、火事で失くした命だったのかもしれない)と思うと、感慨深かった。
本当に救助に当たって良かったと思う。
「ずっとお探ししていたのですが、あんなにも勇敢に救助に当たってくれた女性が、貴族のお嬢さんだとは思いもよりませんでした」
感謝の言葉と共にしみじみと語ったエバンス侯爵に、マーサは苦笑する。
「あの時の私は全身ススだらけでしたし、燃え移りそうな上着などは脱ぎ捨ててしまっていましたからね。貴族に見えなかったなら幸いでした。
一応貴族令嬢でもある私が、ススだらけで走り回っていたなんて事は、世間に言えたものではないですから」
暗闇の中で身分が分からなかったのは、お互い様だったようだ。
そして前世で観た白雪姫の小人のような男は、エバンス侯爵の秘書だったらしい。「暗闇じゃなくても、高貴な方に仕える秘書には見えなかった」とは言ってはいけない事だろう。
その後、月の花の販売について相談したマーサは、エバンス侯爵から、マーサ名義の商会を立ち上げて独占販売する事を提案された。
命の恩人であるマーサに、恩返しをしたいとの思いらしい。
「あらゆる限りのサポートは惜しまない」とまで言ってくれたエバンス侯爵の言葉に、マーサは頷いた。
〈恋する月の花〉のストーリーの始まりを楽しみに人生を歩んできたマーサだったが、今のマーサはもうストーリーを純粋に楽しむ事は出来ない。
カシアンに、一カ月も経たずして婚約解消されたおかげで、マーサは「格下の美人男爵令嬢に、婚約者を奪われた女」と世間に面白おかしく語られている。
当分の間―――というより一生、キズモノになったマーサが良縁に恵まれる事はないかもしれない。
(それなら女経営者として生きてみるのもアリかも)と思う事ができた。
そしてエバンス侯爵からマーサのサポート役として紹介されたのが、目の前のこの男だ。
「マーサ嬢、月の花の採掘量が上がってますね。価値を高めたいから、出し惜しみしつつ貴族に売り付けていきましょうか?
―――そうですね。まずは皇族から狙うのはどうでしょう」
不敬な言葉を軽々しく口にするこの男が、実は身分を隠した第三王子だという事をマーサは知っている。