03.
何も言わず、静かに左手の指輪を眺めるだけのマーサに、カシアンが心配そうな顔を見せていた。
美しい形をした眉根が寄せられている。
「マーサ。顔色が悪いけど大丈夫か?話はまた今度にしようか?返事は急がないから、婚約解消の件は落ち着いてゆっくり考えてほしい。
もちろん今度の舞踏会は、約束通りマーサと参加するつもりだから安心してほしい。舞踏会で着るドレスも、僕が贈ったドレスを着てくれたらいい。
僕はマーサには誠実でありたいと思ってるんだ。
マーサが僕との婚約解消を受け入れる気持ちが整うまで、僕は待つつもりだよ。指輪もそれまで持っていてくれてもいい。
フィオーレも―――あ、彼女はフィオーレという名で、オルコット男爵家の女性なんだ。フィオーレも、マーサの気持ちが落ち着くまでは、マーサに付いていてあげてほしいと言ってくれているんだ。………彼女は優しい女性なんだよ」
フィオーレを思い出しているのか、想いを噛み締めながら話すカシアンの言葉に、マーサの心は冷えていく。
あれほど熱烈にマーサに婚約を申し込んできたカシアンは、すでにマーサとの婚約を解消する事を決めている。なのにマーサに誠実でありたいと話すカシアンが滑稽だった。
フィオーレともすでに気持ちが通じ合っているようだ。
(これはストーリーが変わってしまった影響なのかしら?この世界が、ストーリーの辻褄を合わせるために、カシアンにそう言わせてるの?
………この人は本当に、私が前世から憧れてきた人なんだろうか)
締めつけられるような悲しみの中、どこか冷静な頭でカシアンを眺めながら思う。
「マーサ。君への気持ちは愛ではなくなったけれど、それでも僕はマーサを大切に思う心に偽りはない。これからは良き友人として、マーサを支えていきたいんだ」
「―――それ、本気で言ってるの?」
やっと口を開いたマーサに、カシアンがホッとした顔になる。
「もちろんだよ。マーサを大切に思う心は、今も変わらないよ」
カシアンは美しい顔に微笑みを浮かべるが、マーサが言いたかった事はそうじゃない。
「本気でそんな都合の良い事がまかり通ると思ってるのか」と言いたかったのだ。
マーサを思い遣るように見せかけた言葉には、カシアンの打算しかない。
近くある舞踏会で、カシアンから贈られたカシアン色のドレスをまとったマーサが、まさか婚約解消を告げられていると世間が気がつくはずがない。
「婚約を発表して一ヶ月も経たないというのに、他の女性に心を移した」と世間に知られて困るのはカシアンの方だ。「騎士道精神に反する」と世間から叩かれるのを恐れて、今はまだマーサと出席したいのだろう。
縁を切らずに良き友人となって、得をするのもカシアンだけだ。
マーサにフィオーレとの仲を認めてもらえれば、「浮気者」「略奪者」とこれからの二人に立つ、社交界での悪い噂を抑える事ができる。「元婚約者までが認めざるを得ない女性」としてフィオーレを持ち上げたいのかもしれない。
これからマーサは、「男爵家の美女に婚約者を奪われた女」と社交界で見なされる。
カシアンの良き友人になりでもしたら、「美貌の騎士カシアンに、友人の位置まで落とされてでも縋りつく女」と、口さがない者は面白おかしく噂するだろう。
マーサ個人も、イークチィ家も笑い者になるだけだ。
ヒロインほどの美しさはないが、そこそこに美人でそこそこに頭がよく、そこそこに家柄が良い「淑女の中の淑女」と知られているマーサは、貴婦人達のお茶会での噂話を盛り上げるだろう。
「淑女の中の淑女でも、女としての魅力はなかったのね」、と。
いくらマーサがこの世界で、エキストラにもなれない存在だからといって、そんな現実まで受け入れられるはずがない。
カシアンが美しいからなんだというのだ。
この世界一の美人に心変わりした浮気者じゃないか。
そんな男と友情を育む必要はない。勝手にヒロインと結ばれて、幸せになればいい。
マーサは優雅な所作で左手の薬指から指輪を外し、カシアンの前に置く。
そして静かに口を開いた。
「―――婚約解消を受け入れます。婚約を結んでしまっている以上、カシアン様には慰謝料を請求する事になるけど、そこは了承してもらうわね。
贈ってくれたドレスはお返しするわ。あなたの色だし、今度の舞踏会にフィオーレさんに着てもらって、二人で出席したらどうかしら?」
「マーサ……!ありがとう。フィオーレを認めてくれるんだね。君なら分かってくれると思ったよ。君の、そういう人を思いやれる優しい所が大好きなんだ。僕達はこれからもずっと―」
「だけどカシアンと友人に戻るのは無理よ。そんな事、無理に決まってるでしょう?
そんな事をしたら、私が世間で笑い者になるだけだって、分からない訳じゃないでしょう?
―――それとも、分からないふりをしているのかしら?カシアンが「婚約者を捨てた不誠実な男」と、社交界で噂されないために?」
カシアンの言葉を遮って、マーサが冷たく言い放つと、カシアンの顔が心外だというように悲しげに歪む。
マンガの中のカシアンが誠実なヒーローだったように、カシアンは純粋にマーサと友人でいたいと願ったのだろうか。
カシアンに打算の色が見えるのは、マーサの心が歪んでいるせいなんだろうか。
(考えても仕方がない事ね)とマーサは自嘲する。
「もう私達は会わない方がいいと思うの。今日で会うのは最後にしましょう?後はお父様と弁護士様にお任せするわね。
さようなら、カシアン。運命の女性のフィオーレさんとお幸せにね」
「マーサ……」
勝手に傷ついた顔をするカシアンをこれ以上見たくなくて、マーサは優雅に立ち上がって、彼に背を向けた。
この世界は、〈恋する月の花〉の世界だ。
こうなる可能性はいくらでもあった。
どこかで覚悟していたはずだが、マーサはすでにカシアンを信じて深く愛してしまっている。
胸が押しつぶされるように苦しくて、悲しみがあふれて、歩きながら涙が止まらなかった。
数日前までカシアンは確かにマーサを愛してくれていた。
婚約してからも毎日届いていた恋文は、ここ数日届かなかっただけで、愛の終わりを告げる前兆にもならなかった。
カシアンのマーサへの愛は、たった数日の間に消えてしまっていたのだ。
儚い夢のような愛だった。
その後、ことの成り行きを聞いたマーサの両親は、温厚な両親には珍しくカシアンに激怒した。
マーサに全く非が見られなかったので当然ではあったが、カシアンの家のブレイズ伯爵家からは、相当額の慰謝料の支払いを示された。
だけどマーサは多額の慰謝料は辞退する事にした。
要求したのはただ一つ。
カシアンが祖母から譲り受けた、廃鉱山のファータルーナ鉱山だけだ。
ファータルーナ鉱山の資源は、とっくに枯渇しており、何の価値もないとされている。
そんな山を慰謝料代わりにしたマーサに、両親からは「マーサは無欲すぎる」と呆れられたが、マーサは無欲さを見せたわけではない。
廃鉱山とみなされているファータルーナ鉱山から、希少価値の高い宝石の〈月の花〉が多く採掘される事を知っていたから受け取ったのだ。
エンディング近くのストーリーを知った上での鉱山の要求だった。
カシアンからの別れの言葉は、思い出すたびにマーサを苦しめた。どうしても消えないカシアンの打算の色が、マーサを深く傷つける。
ズタズタになった心の深い傷は、多額の慰謝料などで癒されるはずがない。
だから莫大な慰謝料を請求する事にしたのだ。
ブレイズ伯爵家の四男で、爵位も家も持たないカシアンが、後に莫大な財産を築く鉱山くらいは受け取ってもいいような気がする。
マーサは心優しいヒロインではない。
ここで優しさを見せる必要はないだろう。