表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/10

02.


これだけはハッキリと断言できる。

〈恋する月の花〉の登場人物の中にマーサという人物はいない。


マーサが雅子だった頃に、長い入院生活の中で、あれほど読み返したフルカラーのマンガだ。

もし通行人の中にでも、雅子と同じ黒髪黒目の女性がいたら、「あ、私と同じ色の人見つけた」と目を留めていただろう。

それにマーサなんて名前を見つけたら、きっと雅子とマーサを重ね合わせて、〈恋する月の花〉の世界に入った気分になっていたのではないだろうか。


マーサは明らかに、この〈恋する月の花〉の世界にいるはずのない人物だった。

マーサの家がイークチィ伯爵家なのも、雅子のフルネームが井口雅子という名前だったからかもしれない。


偶然と思えない偶然に、(この世界の神様が、大好きなこの世界に生まれ変わらせてくれたのかも)と感じて、子供の頃からこの世界を愛しく思わずにはいられなかった。


病弱だった前世では、神など信じられなかったが、マーサとなった今世では、この世界の神を深く敬い、ボランティア活動にも力を入れている。


マーサは前世と同じくあまり社交的ではない性格だが、〈恋する月の花〉の世界観全てを愛していたので、勉強もファッションもマナーも、この世界の全てをよく学んでいた。


おかげで社交界でのマーサの評判は、「淑女の中の淑女」だ。




地味ながらもなかなか順調な人生を送りながら、マーサは〈恋する月の花〉の幕開けをずっと楽しみに待っていた。

雅子だった頃に、全てのシーンを暗記するほどにマンガを読み返していたマーサは、いつ劇場の火災が起きるかも覚えていた。


その日の朝までは、「いよいよ〈恋する月の花〉がスタートするのね」と楽しみにしていたし、実際こっそりと劇場近くのカフェで、ワクワクしながら劇場の様子を伺っていた。


だけど劇場から立ち上がった一筋の白い煙を見た瞬間にハッとした。

「この火災で多くの死傷者が出た」というマーサのみが知る事実が、突如現実としてマーサに突き出された。


(フィオーレがカシアンに救助される時に話した、「奥にいたお年寄りのご夫婦」はどうなっただろう)


何気に読み流していた部分が気になってくる。


(お年寄りの夫婦だけではない。他に犠牲になった人の中には、誰がいたのだろう。………もしかしたら私の知っている人がいたかもしれない)


ドクンと心臓が跳ねた。

名前を書かれる事もなく「多くの死傷者」とまとめられたその人達が、たとえマーサと無関係の者達だったとしても、その人達を大切に思う人はたくさんいるだろう。


(犠牲者が出ると分かっていたのに、それをカフェで見物しようとしていたなんて!)


この世界は今、マーサにとっての現実だ。「多くの死傷者が出た」という事実は、何気に流していい話ではない。

急に事の重大さに気づき、罪悪感でマーサはいても立ってもいられなくなった。


(今の段階なら、助かる命は多くあるはず!)と椅子から勢いよく立ち上がると、何事だとカフェの店員がマーサを見たが、こんな時に淑女の仮面を被ってはいられなかった。


劇場に急ぐと、細く立ち上る白い煙は黒煙に変わりつつあったが、まだ気づいている人はいない。

マーサは劇場に走り込んで、必死に叫びながら劇場にいる人に避難を促した。


「火事です!避難してください!火事です!!」


ストーリー通りに進めるならば、劇場の火災は傍観するべきだ。

―――分かっている。

だけど何も知らないフリをする事が出来なかった。


ここが〈恋する月の花〉の冒頭シーンになるのだと知っていたから、この劇場には何度も足を運んだ事がある。

オタク心で劇場の造りは完璧に覚えていた。


急に照明が落ちて動揺する劇場スタッフに、マーサは的確な指示を出し、混乱が出ないように観客達を避難させていく。

老人や女性や子供を優先的に外に出し、おおかたの観客達の避難を終え、やっとホッと息がつけた。


(カシアンとフィオーレは無事出会えたかしら?)


〈恋する月の花〉のストーリーを思い出す余裕も出て避難者を見渡すと、フィオーレの姿が見えない事に気がついた。

波打つ桃色の髪が、避難者であふれる人々の中に見当たらない。


(まさかフィオーレはまだ中にいるの?こんなに火が広がっているのに?―――私はこの悲劇を知っていたのに、傍観しているつもりだったの?!彼女に危険が迫っているのは、私の責任だ!)


マーサは罪悪感でパニックに陥り、燃える劇場の中に再び入った。


(もう少しだけ。この辺りでフィオーレはカシアンと出会ったはず。カシアンが助けてくれるはずだから、フィオーレを見つけたら、すぐに私も避難しよう)


そう考えて、焦る心で少しだけフィオーレを待つ事にした。



「君!大丈夫か?!」


暗い廊下で、急に手を掴まれて振り向くと、カシアンだった。


「急ごう!出口はこっちだ!」と手を引こうとするカシアンに、マーサは慌てた。


「私は大丈夫ですから!この奥にまだ女性がいるみたいなんです。助けを呼ぶ声が聞こえたんです。お願いです!私よりどうかその女性を先に助けてあげてください!」


フィオーレを差し置いてマーサが助けられていては、フィオーレの救助が遅れてしまう。

必死にカシアンに伝えたが、「君は――」と言って口を閉じたカシアンに、腕を引かれて強引に外へ連れ出されてしまった。


「待って!まだ本当に中に人が――!」としつこく訴えるマーサに、カシアンが呆れた顔で「あの子の事か?彼女も無事だったみたいだよ」と指を指された。

指差す先には、濡れた毛布を頭から被らされて救助されている少女が見えた。


毛布の隙間から見える髪色が桃色で、マーサの足から力が抜けていく。


(よかった。フィオーレは無事だったのね)と安堵すると、それまでの緊張が解けて、涙があふれてしまった。




―――それがマーサとカシアンの出会いだった。


フィオーレがカシアンと出会うはずの場所は、マーサとカシアンの出会いの場所となってしまった。


ストーリーが変わったのは、明らかにマーサのせいだ。


だけどマーサは、ストーリーを変えてしまった罪悪感は感じても、後悔はしなかった。

劇場が崩れ落ちるほどの火災の中、観客の中に犠牲者の一人も出る事がなかったからだ。


もし一人でも犠牲者が出ていたら、マーサはストーリーなどもう楽しむ事は出来ず、一生罪悪感にさいなまれていた事だろう。

せっかく今世は健康な体を手に入れたというのに、精神を病んだ人生を送りたくはなかった。


カシアンとフィオーレの出会いの場を潰してしまったが、主人公の二人だ。

そのうちきっと形を変えた運命的な出会いをして、二人は結ばれてくれるだろうと考える事にした。

マーサが劇場で救出作業に当たった事が、間違いだと思いたくはなかったからだ。




だけどストーリーは変わってしまった。


カシアンは、あの火災現場でフィオーレを助けてほしいと懇願したのは、マーサの人柄だと誤解していた。


「追い詰められた状況では、誰もが自分だけが助かりたいと必死になるものだ。あんな時にまで他人を思いやれるマーサ嬢は、どれほど勇敢で心根が優しい人なんだろう。僕はマーサ嬢に恋焦がれずにはいられない」


〈恋する月の花〉のフィオーレの人柄に惹かれたように、カシアンはカシアンの中のマーサの人柄に恋をしていた。毎日情熱的に愛を囁く手紙が、花束と共に届けられた。


(私が受け取るべき手紙じゃないのに)と思いながらも、マーサは愛を囁くカシアンからの手紙を何度も読み返してしまう。

カシアンは、マーサが雅子だった頃から恋焦がれてきた人だ。嬉しくないと言ったら嘘になる。


だけどマーサは、自分がこの世界のヒロインではない事を知っている。

カシアンを信じて彼を愛してしまう事が怖かった。


「マーサ嬢が僕の運命の人だ」と囁くカシアンに、「カシアン様には、私よりもっと相応しい女性がいますから」と、カシアンに惹かれながらも拒み続けていた。



憧れのままなら諦められる。

だけど愛してしまったら、もうカシアンを諦められなくなってしまう。その先には絶望しかない。

カシアン以上の素敵な人は、この世界にはいない事もマーサは知っている。


マーサは自分の心に蓋をして、必死にカシアンを拒んできたが、カシアンが月の花の指輪を差し出してプロポーズしてくれた時に、とうとう前世からの想いがあふれてしまった。


〈月の花〉の指輪は、〈恋する月の花〉の象徴だ。

こんな素敵な指輪でプロポーズしてくれるなら、このプロポーズは本物かもしれない。


――――マーサは愚かにもそう勘違いしてしまった。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
「指輪と俺の容姿で落ちない女はいないだろう。最悪指輪なんて使い回せる」そんな声が聞こえてしまった
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ