01.
だから言ったじゃない。
絶対こうなるって分かっていたから、何度も言ったのよ。
あなたには私よりもっと相応しい人が他にいるって。
だけどあなたが「一生想いは変わらない」って誓ってくれて、こんな指輪までくれたから、あなたを信じてこんなに愛しちゃったんじゃない。
なのに今さら「他に運命の人に出会った」なんて、そんな都合のいい事を言わないで。
心の中では彼を責めずにはいられない。
だけどどれだけ彼を責めても、どうにもならない事は分かっている。
だから彼を責める気持ちを言葉にする事はできなかった。
「―――ごめんマーサ。でも君に婚約を申し込んだ時の気持ちは、決して嘘じゃなかった。本当にあの時は、マーサが運命の人だと信じていたんだよ。
だけどマーサの言った通り、マーサより運命を感じる人は他にいた。彼女を一目見た瞬間に、僕は本当の運命に気づいてしまったんだ」
残酷な言葉を告げる彼は、この世界のヒーローだ。
彼の言葉の一つ一つがナイフとなって、マーサの心を深く傷つけていく。
胸が締めつけられて息が止まりそうだった。
――だけどこの苦しい想いを口に出す事が出来ない。
出会ってすぐの彼から、熱烈なアプローチを受けた後に婚約を結んだマーサだったが、本来彼の愛すべき人は他にいる。出会った瞬間に恋に落ちるべき運命の人はマーサではなかった。
マーサはそれを知っていた。
知っていたにも関わらず、(もしかしたら運命が変わったのかも)と期待してしまったが、やはりマーサは彼の最愛になれなかったようだ。
彼の告げる言葉は、マーサにとっては不誠実でしかない言葉だが、マーサはそれを受け入れるしかない。
彼を本気で愛したマーサが愚かだっただけだ。
目の前で「本当にごめん」とうなだれる彼を見て、マーサは情けない顔で泣き笑いをするしかなかった。
泣いてもしょうがない。
泣いたところで運命は変わらない。
マーサには前世の記憶がある。
この世界はマーサが前世、雅子という名の病弱な少女だった頃に、病院のベッドの上で読んだ少女マンガ―――〈恋する月の花〉の世界だ。
全てのシーンを覚えるほどに、何度も読み返したフルカラーのマンガだったから、物心ついた頃には、この世界が〈恋する月の花〉の世界だと気がついていた。
王都を象徴する、街で一番高い時計塔は、マンガの中で見た時計塔と同じだったし、国の伝統ある月形のお菓子も、マンガの中で見ていたお菓子だった。ずっと食べてみたいと憧れていたお菓子だ。間違えるはずはない。
それにこの世界のヒーローの家――― 騎士の家系のブレイズ伯爵家も存在していたし、剣の才能があって容姿端麗な四男のカシアンも、幼少期から社交界の噂になっていた。
だからストーリーが始まるその日を、マーサは幼少期からとても楽しみにしていた。
子供の頃からむさぼるように様々な分野を学んだし、マーサはこの世界―――〈恋する月の花〉に関するものは広く知り尽くしているつもりだ。
〈恋する月の花〉は、劇場で起きた大きな火災のシーンから始まる。
片田舎に住む男爵家ヒロインのフィオーレ一家が、王都の劇場に遊びに行った際に、不幸にもその火災は起こった。
「火事だ!」と誰がが叫んだかと思ったら、場内の全ての照明が落ち、またたく間に劇場内は黒煙が立ち込めて暗闇になった。
初めて訪れた劇場で、逃げ惑う群衆の中で家族とはぐれてしまったフィオーレは、震える足を叱咤しながら、暗闇の中を壁伝いに出口に向かって歩いていた。
ケホケホと咳をしながら歩くフィオーレに気づいたのはカシアンだ。
たまたま火災の起きた劇場前を歩いていた時に、「まだ中に人がいる!」という、劇場から出てきた者の声で、正義感の強い彼は危険を顧みずに救助に入ったところだった。
これがフィオーレとカシアンの出会いだ。
フィオーレを安全な外に連れ出した後、すぐまた救助に向かったカシアンに、フィオーレは名前を聞く事もお礼を伝える事もできなかった。
(名前だけでも聞いておけばよかった)と悔やみながら、ずっとカシアンを忘れられないままに、月日だけが過ぎていく。
カシアンは美貌の騎士として王都では有名だが、フィオーレの住む片田舎までは、カシアンの噂は届かなかった。
薄暗い劇場内で手を引いてくれた、名前も知らない彼にフィオーレは想いを募らせていく事しかできない。
一方カシアンもフィオーレを忘れられないでいた。
あの火災現場で、カシアンが「すぐに助ける!」と声をかけた時に、「まだ奥にお年寄りのご夫婦がいるはずなの。助けを呼ぶ声が聞こえたわ。お願い、私よりもその方達を助けてあげて」と懇願した少女の優しさに心を打たれていた。
追い詰められた状況では、誰もが自分だけが助かりたいと必死になるものだ。
あんな場所で他人を思いやれる少女は、どれほど勇敢で心根が優しい者だったのだと恋焦がずにはいられない。名も知らぬ彼女は、どれだけ時間がかかろうとも必ず探し出すつもりでいた。
二人は出会った時から惹かれ合っていたのだ。
だけどカシアンがフィオーレをどれだけ王都で探しても、片田舎に住む彼女を見つけられるはずもなかった。
「すぐ近くまで来ているのに、すれ違って出会えない」というヤキモキさせられる展開が続き、フィオーレとカシアンが出会えたのは、ずいぶん後になっての事だった。
再会するまでは「ああ、もうすぐ出会いそうなのに!」「そこで振り向けば」「そこで風が吹いて立ち止まらなければ」というすれ違いにもどかしい思いだったが、出会ってからは運命に引かれるように二人は結ばれていった。
情熱的にフィオーレに気持ちを伝えていくカシアンは、どのカットにもすごく色気があって、雅子だったマーサは何度読み返してもドキドキしていたものだ。
中でも好きだったシーンは、〈月の花〉と呼ばれる稀少な石を使った指輪をフィオーレに渡しながらプロポーズするシーンだ。
あれは心震わす最強シーンだった。
願いを叶えると言われる三日月をバックにして、指輪の〈月の花〉が月の光に輝いていた。
指輪が放つ、淡く繊細な光に包まれたカシアンとフィオーレがとても幻想的で、二人の姿は今でもマーサの脳裏に焼きついている。
二人のプロポーズシーンが、また鮮明に頭に浮かび、マーサは静かに目を閉じた。
あれほど感動的だったシーンなのに、今はこんなにも胸が締め付けられる。
胸が詰まり息をするのも苦しいくらいだ。
分かっていたはずばった。
―――それなのに。
(ヒロインは私じゃない。勘違いしてはダメだ)とあれほど自分に言い聞かせていたのに、三日月の夜にプロポーズしてくれたカシアンの姿が、あの心震わせたシーンと同じだった。
三日月に照らされた月の花の指輪が、淡い光を放って、美しいカシアンを照らしていた。
だから(運命が変わったのかもしれない)と勘違いしてしまい、こんなにもカシアンを愛してしまったのだ。
分かっていたはずだった。
〈恋する月の花〉の中に、マーサという人物は登場しない。
この世界で、マーサとカシアンは出会うはずのない者同士だった。
カシアンが運命の女性と出会ったというならば、大人しくここは引くべきだろう。
(それ以外にどうすればいいっていうのよ。………だから何度も「あなたには他に相応しい人がいる」って言ったのに)
マーサは左手の薬指にはめられた指輪に目を落とした。
〈恋する月の花)でカシアンがフィオーレに差し出した指輪は、月の光のもとで輝きを放つ指輪だ。
明るい日の光のもとでは輝きを放てない。
薬指で輝きを失っている今の指輪は、カシアンの愛を失った今のマーサのようだった。