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白い結婚は三人で

真実の愛は保留して、辺境で後妻兼教育係になりました

作者: 鈴白

「白い結婚は三人で〜堅物伯爵令嬢は夫と愛人に提案する〜」に出てくる愛人ことアンジェリカのお話です。単独でもお読みいただけます。

アンジェリカはタウゼント男爵家の庶子である。

とはいえ、家庭事情はさほど複雑ではない。父は正妻と愛妾の序列を乱さない範囲で家族を大切にする男だったし、母と男爵夫人もほどよい距離感で付き合えていた。タウゼント領は小さいが豊かな土地で、経済的にも恵まれていた。


十二歳になるとアンジェリカは、王都に新設された貴族女学院に進学した。初めての都会、初めての学校、そして初めて出会う令嬢や貴婦人達。アンジェリカの胸はときめきと不安ではち切れそうだった。

貴族としてのマナーや教養を学び、学友や教師にも恵まれ、学園長である王太后の名の下にデビュタントも果たした。卒業式では成績優秀者として、王太后直々に名を呼んでもらうという栄誉にあずかった。


「これでアンジェリカは、どこに出ても恥ずかしくないご令嬢だ。私も鼻が高いよ」

瞳を潤ませ笑ってくれた父の表情に、アンジェリカの胸は誇らしさでいっぱいになった──のだが。


卒業後、アンジェリカは伝統あるレント侯爵家で行儀見習いをすることになった。侯爵家の行儀見習いには同年輩の令嬢が五名ほどいたが、貴族女学院を出たのはアンジェリカひとりだった。

性格も学友達とは大違いだ。貴族女学院では学生同士で時事問題や本の内容について議論を交わすことが度々あった。けれど、行儀見習いの令嬢達は、何か問われても自分の意見を言わない。レント侯爵令嬢・ミュリエルが何か言ったときだけ「私もそう思いますわ」と賛同するのだ。

その空気に耐えかねて、アンジェリカが自分の意見を口にしたこともある。それを聞いて、令嬢達はくすくすと笑った。笑われるほどおかしなことは言っていないはずなのに。極め付けに、ミュリエルは令嬢達を窘めながら、こう言ったのだ。

「アンジェリカ様のおられた貴族女学院では、殿方の真似事で議論もなさるそうですわ」

令嬢達が一様に「ああ」とため息を漏らす。

「女学院は子爵家や男爵家のご令嬢が多いのでしょう?」

「難しい話を得意げになさるのも、淑女らしさに欠けますわ。私の母は、あまり感心しないと申しておりました」

「あら、子爵家や男爵家の方々にも教養は必要ですわよ。元より王太后様は孤児院を作られたりと慈善に熱心でおられましたもの」


アンジェリカの指先が、すうっと冷たくなった。

自分は軽んじられているのだ。それくらいはわかる。


田舎男爵の庶子の出ゆえに、女学院でも心無いことを言われることはあった。でも、言われた分だけ勉強で見返してきたし、時には直接言い返すこともあった。

でもそれは、学びの場では皆が対等だという女学院の理念ありきでのことだ。この場ではアンジェリカが一番身分が低く、下手な発言は非礼になってしまう。それにこの令嬢達は、アンジェリカに対して悪意すら持っていないのだ。「場違いで品格に欠けるのはアンジェリカのほう」だから、意地悪く煽り立てる必要もないだけで。


侯爵家の行儀見習いでの日々で、学校で培った自信はあっという間に潰れてしまった。

それでも、アンジェリカが実家に戻らずにいたのは、ルパート・ファルマン伯爵令息がいたからだ。

ルパートは、レント侯爵令息の友人達の中でもとりわけ目を引く美丈夫だった。絹のようなプラチナブロンドに碧玉の瞳。凛と響く美しい声。その彼が、レント侯爵家のお茶会で、他の令嬢を差し置いてアンジェリカに手を差し伸べてきたときの気持ちといったら!

ルパートはアンジェリカに素敵な贈り物をくれたし、色々なところへ連れ出してくれた。流行のドレスや靴を身につけ、夜会や劇場へとエスコートしてくれるのだ。

「アンジェリカはマナーがきちんとしているから、鼻が高いよ。ダンスも上手だしね」

ルパートに褒められて、アンジェリカは有頂天になる。

ふたりで出かけた何度目かの夜会、夜の庭園でルパートはアンジェリカにキスをした。そして跪くと、こう告げたのだ。

「君に真実の愛を捧げると誓うよ」

その瞬間、アンジェリカは間違いなく人生で最高に幸せだった。


それなのに。

「ごめんねアンジュ、君の身分ではどうしても母が妻として認めてくれないんだ」

ルパートが悲しげに眉を曇らせる。アンジェリカは先日面会したルパートの母を思い出していた。伯爵家の品格が服を着て歩いているような、美しく壮麗な伯爵夫人。アンジェリカのマナーを褒めてはくれたが「よくお勉強されたのね」という言葉には微かに毒があった。一見和やかだがピリついた会合だったのに、ルパートだけは嬉しそうににこにこしていた。

「でも心配いらないよ、アンジュ。僕は母が選んだ人と結婚するけど、真実愛する相手は君だけだから。僕の父も、領地にそういう人がいてね。不自由はさせないと約束するよ」

「えっ…」

アンジェリカは言葉を失った。彼女の知らないところで既に結婚相手が決まっていることに対しても、それを受け入れるとルパートが思って疑わないことに対しても、もやもやとした思いが広がっていく。

ルパートはアンジェリカの沈黙を肯定だと受け取ったらしい。愛しげに微笑むと手を握り、額にキスをした。

「大丈夫さ。君のお母様も愛妾だったんだろう?僕達はうまくやれるはずさ」

甘い声でそう囁かれ、アンジェリカは気持ちに蓋をして頷くしかなかった。


そういう宿命なのだとアンジェリカは思うことにした。女学院の卒業式での誇らしい気持ちこそが虚飾で、地方の下級貴族の、それも妾腹の娘の人生など、次期伯爵の愛妾になれれば十分「当たり」じゃないか。もやもやした気持ちに蓋をして、ただ愛し愛されていればいい。

そう呑み込みかけた人生は、ルパートの結婚相手であるクレア・ボウルズ伯爵令嬢に再び引っ掻き回されることになる。


◆◇


アンジェリカとルパートとクレア。三人での初めての会合で、クレアはとんでもないことを言い出した。

「これは提案なのですが──いっそここにいる三人で白い結婚をいたしませんこと?」


白い結婚。要は夫婦の間で男女の営みがなかったことにより円満離婚、という仕組みである。貴族の離婚は手続きがとにかく面倒だが、「白い結婚に基づく円満離婚」なら、子供がいないまま三年を経ており、夫婦双方による直筆の同意書があれば離婚が可能になる。

クレアの言い分はこうだ。ルパートは家のため愛する人を妻にできず、アンジェリカは何の権利もない愛人に甘んじることになる。クレアは愛ある結婚を最初から諦めることに…それでは誰も幸せになれない。だから三年間の白い結婚をして、その後でルパートとアンジェリカが「真実の愛」を貫いた同士として結ばれればいい。

銀縁の眼鏡の奥の瞳を光らせて、クレアは滔々と策を披露した。

(地味でお堅くて面白味がない…なんてルパート様は仰っていたけど、どこがよ?!)

会合は完全にクレアのペースに巻き取られ、ルパートもアンジェリカも彼女の提案に乗ることになった。三年間、アンジェリカはクレアの親類であるエミリオ・デュケー子爵の後添いとして、南部で暮らすのだ。ルパートと離れるのは辛い。恋しい人の声も聞けず、抱擁もキスもできないと思うと気が滅入ってしまう。

それでも、この三年を乗り越えられれば、愛するルパートの妻になれるのだ。アンジェリカはそう自分に言い聞かせて、王都を後にした。


馬車の窓からきらきらとした水面が見える。どこまでも広がるそれに、アンジェリカは感嘆のため息をついた。

「海は初めて?」

「はい。実家は山の方なので。お屋敷も海に近いのですか?」

「そうだね。何しろうちは港町の産業で成り立っているから」

海での漁業と交易が、デュケー子爵領の主産業だという。近年、船の技術が改良されたことにより、港町は今まで以上に栄え、商売で訪れる異国人の数も増えた。その分どうしてもトラブルが増え、辺境騎士団の分隊が担う警備関係も忙しくなっているらしい。

「交易の品目や取引先は毎年増えるし、僕は騎士団分隊長でもあるからそっちも忙しくてね。仕事が本格的に回らなくなってきているんだ」

お恥ずかしい話だけどね、とエミリオが言う。

「君には屋敷の取り仕切りと、領地の婦人会関係の社交や陳情の受付。そして一番に、娘の教育係をお願いしたい」


エミリオには、二年前に亡くなった前妻との間に子供が三人いる。

長男は王都の貴族学園で次期領主としての勉強を、次男は南部辺境伯領の騎士学校で武芸を磨いている。九歳になる末娘のメリーベルだけが、子爵領で暮らしているそうだ。

「このメリーベルに、正直なところ手を焼いているんだ。親戚筋にも同世代の女の子はいないし、やんちゃで我儘で」

十二歳になれば、アンジェリカが学んだ貴族女学院に入学できる。ただし、最低限のマナーや教養がないと、入学試験で落とされてしまう。

「一応、後添いという形で来てもらっているわけだけど、君には母親というより、メリーベルの教育係を任せたい。お互いそのほうが気楽だろう?」

「それは構いませんが、私などでよろしいのですか?私は田舎の男爵家の妾腹の娘ですし、それに…」

アンジェリカは一気に不安になる。王都の社交界では出自をとやかく言われたところで、ルパートが庇ってくれさえすればいいと思えた。けれど、社交界で身分の高い男に庇われ、囲われていたこと自体が、教育係としては不適切ではないか。

顔を曇らせたアンジェリカに、エミリオは笑ってみせる。

「そんなことは気にしなくていい。君が貴族女学院で優秀だったことは聞いている。僕は娘を女学院に入れたいんだから、優秀な卒業生に教育を頼むのは普通のことだろう?」

よろしく、と言って差し出された手を、アンジェリカは握り返した。ルパートの白く美しい手とは違う、ごつごつした掌。剣を握る男の手だとアンジェリカは思った。


数日後、メリーベルの初めての授業の日。アンジェリカはお茶会用の上品なドレスを身に纏った。小さなレディに、王都から来た素敵な女性だと思ってもらいたい──

そんなアンジェリカの思惑は一瞬で、投げつけられたカエルと共に消え去った。

「何が令嬢教育よ!帰れ帰れ!ばーか!」

メイド達が真っ青な顔で右往左往する中、メリーベルは二階の窓から出て行った。

「お嬢様!ああっ奥様申し訳ありません!」

泣きそうな顔で頭を下げるメイドに「いいのよ」と声をかけると、アンジェリカは可愛い緑色のアマガエルを摘み上げる。

(手を焼いている──って、そういうタイプなのね)

「今日はもう仕方ないわね。明日また伺います。皆もよろしくね」

アンジェリカはメイド達に告げると部屋に戻った。ベッドに腰掛けて、メリーベルの悪態を思い出すと、笑いが自然とこみあげる。


翌日、アンジェリカは一番動きやすい服を着てメリーベルの部屋に向かった。投げつけてきたアマガエルを素手で掴み、窓から出ていくメリーベルを追いかける。アンジェリカの故郷タウゼント領は果樹産業が盛んな土地柄だ。子供は男女問わず木登りをして遊ぶし、果樹の収穫も手伝う。二階の窓から少女を追いかけるくらい、造作もないことだった。

「何なのあなた、信じらんない!王都から来た令嬢教育の先生なんでしょ?!」

追いかけっこの末、さすがに疲れたメリーベルが草の上に寝転がって叫ぶ。アンジェリカはメリーベルの隣に腰を下ろした。

「確かに私は貴族女学院で学んだことをあなたに教えるよう、エミリオ様に仰せつかっています。けれど、根っからの令嬢というわけでもありませんので」

「…聞いてない、そんなの」

「言っていませんでしたからね」

アンジェリカは微笑みを浮かべ、メリーベルの横顔を覗き見る。ぷいと膨らんだ頬が可愛らしい。丸い瞳がアンジェリカを捉えた。二人はしばらく見つめ合う。潮風が心地よく頬を撫でた。

「私達、まずは話をしましょう。教えたり、教わったりする前に、私はあなたと仲良くなりたいんです。メリーベル」

ややあって、メリーベルはこくりと頷いた。


それからアンジェリカは、メリーベルと極力一緒に過ごすことにした。一緒に遊び、食事し、庭や海辺を散歩する。乗馬のレッスンも一緒に受けることにした。乗馬はメリーベルのほうがずっと上手だし、優秀な先輩だった。

執務の忙しさから自室や出先で食事を済ませがちだったエミリオにも、一緒に食事をしてほしいとアンジェリカは申し入れた。

「でもなあ、仕事も立て込んでいるし、君のほうがメリーベルも話しやすいだろうし」

「差し出がましいようですが、気持ちは行動に移さなければ伝わりません。たとえ毎日は無理でも、一緒にいる時間を作りたいという気持ちは、メリーベルに伝わると思います」

メリーベルと共に過ごしてみてわかったことがある。彼女は構ってほしいのだ。物心ついた頃に実母は既に病気がちで、兄達も早々に領地を離れている。男ばかりの中で育った父親は、女の子の扱いを持て余しているうえに執務で忙しい。そんな中で令嬢教育だけ押し付けられて、やる気になれるわけがない。

「ご存知の通り、私の父には本来の家庭があります。でも父は、私達の家では私や母と共に過ごして話を聞いてくれました。本家でもそうしていたと異母兄から聞いています。エミリオ様ももっと…」

「アンジェリカ」

エミリオに遮られて、アンジェリカはびくりとした。余計なことを言ってしまったかもしれないと身構える。レント侯爵家での令嬢達の笑い声が、耳の奥でざわめいた。

「すみません、余計なことを」

「いや、確かにその通りだ。夕食はできるだけ食堂で摂ることにしよう。騎士団のほうにも話をつける」

早速その日の晩から、エミリオは極力食堂で摂るようになった。


最初は気まずそうにしていたエミリオとメリーベルだが、一週間もしないうちにぽつぽつと会話が成り立つようになった。エミリオが早く帰るおかげで騎士達も家に帰りやすくなり、感謝されているらしい。早く帰ることで発生した持ち帰り仕事は、アンジェリカが補佐役として手伝うことにした。

「アンジェリカのおかげだよ、ありがとう」

エミリオにそう言われ、アンジェリカは誇らしくなった。契約結婚の三年間、精一杯自分のできることをやろう──そう思い、王都にいるルパートへの手紙をしたためたのだが。


『可愛いアンジュ。慣れない仕事をさせられているようで僕は心配だ。僕のもとにいれば、毎日楽しいことだけを考えられるようにしてあげるのに』

ああ、まただ。アンジェリカは手紙を胸に抱いてため息をつく。ルパートと一緒に耐えると決めた三年間、できるだけ前向きに過ごしたいのに。だからアンジェリカは面白かったことや嬉しかったことを手紙に書いているのだけれど、ルパートは必ずそんなアンジェリカを気の毒がるのだ。ルパートと過ごした煌びやかな王都の日々が懐かしくないと言ったら嘘になる。それでも、アンジェリカだって南部で充実した日々を過ごしているのに。


◆◇


二年目。

メリーベルとエミリオの仲はすっかり修復された。エミリオも仕事人間ぶりを程々に抑え、メリーベルやアンジェリカとの時間を大切にしてくれている。その甲斐あってかメリーベルのやんちゃさもだいぶ落ち着いてきて、令嬢教育も順調に進んでいる。

そんなある日のこと、三人は南部辺境伯の居城に向かうことになった。ここ数年、王都に滞在していたデュカス辺境伯夫人──エミリオの母が戻ってきたためである。

「おばあさま、お久しゅうございます。メリーベルがご挨拶申し上げます」

メリーベルが流暢な口上と優雅なカーテシーを披露する。教育の甲斐あってテーブルマナーも完璧だ。

「素晴らしいわ」

思わず小声で褒めると、メリーベルははにかんだように笑った。その顔が可愛くて、アンジェリカはエミリオと目を合わせ微笑みを交わす。

「うまくやっているようで何よりね。エミリオはいい奥様を貰ったこと。クレアの紹介に感謝しなくてはね」

辺境伯夫人が満足げに言った。

「クレアは元気にしていますか?」

エミリオが尋ねる。

「王都では何度か読書会をしたけれど、元気そうだったわ。あの子は肝が太いもの。旦那様の噂にも平然としていたわ」

「噂、ですか」

アンジェリカは思わず聞いてしまった。聞けば後悔しそうで、しかし聞かなければもっと後悔するだろうと思ったから。

辺境伯夫人は眉間に皺を寄せた。

「クレアの旦那様──ファルマン伯爵のお坊ちゃまは、夜会にいつも違う女性と出席しているという話よ。仮面舞踏会の常連だという噂もあるわ。まったく、クレアの父親ときたらとんだ縁談を受けたものよ。金回りは確かに悪くないようだけど──あら、アンジェリカ?」

アンジェリカは思わずふらりとよろめいた。動悸が酷く、眩暈がする。

「すみません。移動の疲れが出たようです。御前失礼いたします」

慌ててそう告げると、アンジェリカは部屋を出た。廊下を突っ切り、ひとりになれるところを探す。中庭へと飛び出すと、ようやくアンジェリカは立ち止まった。

「…はははっ、あははははっ!!」

笑い声と一緒に涙が溢れ出す。


ルパートからの手紙が減っていることには気付いていた。内容が似たような話ばかりになっていることも。

クレアと上手くいっているのかもしれない、と思ってみたりもした。何度か会っただけだが、クレアは頭の回転が速い素敵な人だ。一緒に暮らすうちにルパートが彼女を好きになる可能性もあるし、そうなれば潔く身を引こうとも思っていた。

それが、複数の女性達と。仮面舞踏会のような、いかがわしい場所にまで。

「アンジェリカ」

エミリオの声がする。どうやらアンジェリカを追いかけてきてくれたらしい。

「すまない。まさかこんな話題になるとは思わなかった。もう少し早く話題を変えておけば──」

「いいんです」

アンジェリカは涙を拭う。

「実は、あまりがっかりしなかったんです。ああそうか、あの方ならそれでもおかしくないなって。それに気付いたら、笑えてしまって。あの方にも、私にも」


アンジェリカはわかってしまったのだ。自分がルパートに何の期待もしていないことに。

ルパートを全肯定も盲信もできず、クレアのように自分の主張をぶつけることもできず、勝手に諦めて何の期待もしなくなっていた。そんなアンジェリカのどこが「真実の愛」に値するというのか。


「真実の愛なんて、私に一番相応しくない言葉です」

絞り出すようにそう言って、アンジェリカは涙を拭った。こんなに卑怯で小心者な自分に巻き込まれて、白い結婚の相手になってくれたエミリオに心底申し訳なかった。


「『白い結婚』についてだけど」

アンジェリカの涙が止まるのを待って、エミリオが口を開く。

「あの制度を使うのは、恥ずかしながら南部の騎士が多いんだ。騎士は遠征で何年も家に戻れないこともあるし、そういう男の妻は自分でも仕事をしていることが多いから…アンジェリカも婦人会の会合に顔を出しているからわかるだろう?」

アンジェリカは頷いた。デュケー子爵領の女達は、自分達の手で土地を守る意識が強い。離れていても強い絆で結ばれている夫婦は多いが、信頼関係が築けないと思えば比較的あっさりと離別を選択するのだ。信頼しあっているふりでは家も土地も守れないと思っているのだろう。

「どれだけ離れても強い絆で結ばれて、信頼しあえていれば素敵だとは思う。それを『真実の愛』と言うのかもしれない。でも、うまくいかないことって人生で案外多いからね。恋愛がうまくいかなかったことで、君自身まで否定しないでほしい」

エミリオの手がそっとアンジェリカの肩に触れる。

「君は僕の家族として、妻として誠実に向き合ってくれている。何よりメリーベルには、かけがえのない先生で友達で家族だ。君は愛すべき人だよ」

どこまでも優しい声だった。乾き切った心に染み入るような、暖かな声だった。


◆◇


三年目。

メリーベルの元に王都の貴族女学院からの合格通知が届いた。

「アンジェリカのおかげよ、本当にありがとう!…お母様!」

家族だけのささやかな晩餐会でメリーベルに感謝され、母とまで呼ばれてアンジェリカは思わず涙ぐんだ。寂しがり屋のやんちゃな女の子は、三年で立派なレディに成長していた。


晩餐の後、エミリオはアンジェリカを呼び止めた。

「アンジェリカは、どうするか決めたのかい?」

少しの間を置いて、アンジェリカは頷いた。

「はい。王都に──ルパート様の元には戻りません」

「次期伯爵夫人になれるとしても?」

「ええ。私にはもう、あの方への気持ちが残っていないのです」

口に出すと、いっそすっきりした心持ちになった。アンジェリカは、真実の愛を貫けなかった。それでいいのだと今は心から思っている。

「三年間、このようなことに付き合わせてしまって、申し訳ありませんでした。エミリオ様にもデュケー領の皆様にも大変よくしていただき、感謝してもしきれません」

女学院を出てから王都ではずっと、身の程知らずだとちくちく刺され続けるような日々だった。それがデュケー領に来てからは、考えを認めてもらって、ありがとうと言われることも多くて。固まっていた心が、いつの間にか軽く柔らかになっていた。

だからこそ今が潮時だろう。もう、彼を縛るべきではない。教育係もお役御免だし、優しく温かい人柄のエミリオなら、いくらでも良い縁はあるはずだ。胸の微かな痛みを隠し、アンジェリカは微笑む。

「白い結婚の同意書は私の手元にありますから、こちらを提出したら私は実家に戻ろうかと──」

「えっ待って」

エミリオが慌ててアンジェリカを遮る。

「何で実家に?」

「だって、メリーベルも進学しますし、エミリオ様をこれ以上縛るわけにも」

「縛るとか、そんなことを気にする必要はない。あれだけきちんと仕事をしてくれていたんだし」

「仕事を評価していただけるのは嬉しいです。できるだけきちんと引継ぎはいたしますから」

「だから、そうじゃなくて」

エミリオは頭をぶんぶんと横に振り、手を額に当てた。

「すまない。僕はどうやら、大事なことを伝えられていなかったらしい」

そう言うとエミリオは小さくため息をつき、ややあって口を開いた。


「この三年間、僕はとても楽しかった。家族のことも領地のことも、君に何度も救われた。君がおかえりと出迎えてくれて、一緒に食事をして、仕事をして、取り留めもない話をして──そういう毎日が大切だと、かけがえないと思うようになったんだ。僕は君と一緒にいたい。だから」

エミリオの瞳がアンジェリカを射抜く。

「君さえ良ければ、このまま結婚を続けないか。これからは契約ではなく、ちゃんと夫婦として」

アンジェリカの胸は暖かいものでいっぱいになった。込み上げた涙をどうにか押し留め「はい」と言って頷く。エミリオが安心したように笑って、アンジェリカを抱き寄せた。初めての抱擁なのに、なぜか暖かく懐かしいとアンジェリカは感じていた。


◆◇


二人の結論は、手紙でルパートとクレアに伝えることにした。アンジェリカはひとりで書こうと思っていたが、エミリオが自分も書くと言い出したので、随分と長い手紙になった。クレアからはすぐに返事と、お祝いの品が届いた。彼女は予定どおり「白い結婚に基づく円満離婚」の権利を行使したらしい。ルパートからの返事はなかった。彼には恨まれても仕方がない。せめてもの誠意として、かつて貰った贈り物を返そうかとエミリオに相談したが、止められてしまった。

「やめておいたほうがいい。彼にも男のプライドがあるだろうから」

「そういうものでしょうか」

アンジェリカが首を傾げると、エミリオは苦笑する。

「まあ、人それぞれだからね。保管しておいて、何か言われたら返せばいいよ」

男のプライドの話になるとお手上げなので、アンジェリカはエミリオの言うとおりにした。どの道もう着ることもない服や、付けることのない宝飾品だ。


手紙を出してすぐ、寝室も一緒にすることにした。使用人達に夫婦の寝室を使うと告げたときに「本当にようございました」と涙ながらに言われたのは照れくさかったが仕方ない。

白い結婚の同意書は、夫婦の寝室を初めて使った夜に燃やしてしまった。何かの儀式のように真面目くさった顔をしているエミリオが可笑しくて愛おしくて、アンジェリカは自分から彼の頬にキスをした。


それから更に三年が経ち、久しぶりに訪れた王都で、アンジェリカは思いがけずクレアと再会する。クレアはファルマン伯爵家を出て、貴族女学院の教師になっていた。銀縁眼鏡の奥で煌めく瞳は相変わらず理知的だ。来賓室でお茶を飲み、近況報告をし合う。

女学院の教師や卒業生の評判を受けて、最近では上級貴族の子女の入学者も増えているらしい。それを聞いてアンジェリカは内心ほっとした。恋に夢中のままルパートの愛妾になっていたら、廻り廻って女学院の評判を落とす種になっていたかもしれない。

「ではまた会いましょう」

そう言い合って、アンジェリカとクレアは別れた。女学院の玄関ホールでは、エミリオとメリーベルが談笑している。これから息子達とも合流し、共に食事をする予定だ。

二人がこちらに気付いて手を振る。それに手を振り返しながらアンジェリカは幸せを噛み締める。エミリオの誠実な愛が、この女学院にまた彼女を連れてきてくれたのだ。


アンジェリカは愛しい家族の元へと歩き出す。

お読みいただきありがとうございました!

白い結婚時点でアンジェリカ19歳、エミリオ36歳、子供は上から15歳、13歳、9歳くらいの設定です。

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真実の愛のお相手がこんな良いお嬢さんだった話は初めて読んだかも。 素敵な話で面白かったです。
女性達が考えて行動した結果のハッピーエンド!良かったです。 それにしてもルパートは最低クズ野郎でしたね
素敵なお話でした!
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