不安と恐怖から
深夜、激しく打ち付ける雨音に紛れ、玄関の戸を叩く音に誰かが訪ねているのに気が付いた・・
「先生!どうか娘を助けて下さい・・先生・・」
先生と呼び掛ける声・・私は長年、倉庫で品出しの仕事をしていて、そんな私を先生と呼ぶ人物は、今まで1人しか居なかった・・
「宮田さん?」
「はい、そうです。先生、どうか私の娘をお助け下さい・・」
宮田さんに会うのは実に20年振り、しかも勤めている倉庫で1ヶ月程一緒に働いただけで、私を覚えている事さえ驚きなのに深夜に訪ねて来るとは・・
私は、悪い胸騒ぎに台所の包丁を隠し持ち、警戒しながらも玄関の戸を少しだけ開けると、50を過ぎた宮田さんと17,8歳位の娘が、ずぶ濡れで立っている・・
「ず・ずぶ濡れじゃないですか!」
慌てて中へと通し、濡れた上着を脱ぐように言いバスタオルを2枚渡すと、宮田さんは娘の髪の毛をワシャワシャと掻き上げ、タオルを頭に掛けたままにして、自分の頭を拭き始めた・・
「お久しぶりです・・先生・・」
宮田さんは私より5つも年上だが、一緒に働いた時に仕事を教えた為か、私の事を先生と呼ぶ・・
「20年振りですか・・」
温かいお茶を湯のみに注ぎ、ソファーに座るように勧めたが、2人は突っ立ったまま・・
「・・で、娘さんを助けて欲しいって、どういう事ですか?」
そう尋ねると宮田さんは頭を拭く手を止め
「以前、私を助けて下さったように娘を助けて欲しいのです・・」
と言った・・
『以前・・助けた?』
私には、そんな記憶が無い・・金も無ければ力も無い男・・倉庫で宮田さんに品出しの仕事を教えたが、宮田さんは1ヶ月後に辞めて居なくなっていた・・
「本当に私が助けたんですか?全然、覚えてないんですが・・」
宮田さんはバスタオルの間から顔を覗かせると
「当時の私は、人間不振と不安症に悩まされ、とても仕事を出来る精神状態じゃ無かったんです。そんな私に丁寧に仕事を教えて下さり、その中で先生の話す言葉に触れた事で、自分を取り戻し事業を成功させる事が出来ました・・先生と話せたお陰で、私は助けられたのです・・」
「は、はぁ・・事業が成功ですか・・うらやましい・・でもそれは、あなたの努力で私が助けた訳では・・」
「先生の話には力があるんです・・娘はどうやら、以前の私と同じ病に掛かったようで・・感情が無く、無気力になったかと思えば急に怯えて震え出す・・先生!どうか娘と話をして、恐怖から解放させて欲しいのです!」
『私の話に力・・娘を解放・・』
私は話をするのが得意ではないし、そんな力があるとは思えなかったが、頭からバスタオルを被り、突っ立ったまま微動だにしない宮田さんの娘を見て・・
「話をすれば良いんですね・・」
少しでも力に成れればと思った・・
「お願いします・・先生・・」
・・とは言ったものの、若い娘と何を話せば良いのか分からない・・とりあえず
「こんにちは、君の名前は?」
と聞いてみると、娘はか細い声で「・・凛」と応えた・・
「へぇーっ!凛ですか、いい名前だ!」
そう言ってバスタオルを捲り、娘の顔を見ようとしたが俯いたまま動かず、次第に震え始める・・
「怖がらなくて大丈夫ですよ・・」
私は、そっとタオルを戻し
「どうやら、私に恐怖を感じたようですね・・恐怖は、人の持つ感情の中で最も強いものです・・どれだけ楽しい事をしていても、どれだけ怒っていても一瞬でその人を支配しますから・・」
と娘の頭を優しく撫でて
「恐怖を感じる事は悪い事ではありません・・問題は、どう対処するかです。決して恐怖と戦ってはいけませんよ・・人間は臆病で恐怖には勝てない、その場で震えるだけですから」
「じゃあ、どう対処すればいいんですか?先生・・」
宮田さんが尋ねると、私は宮田さんに視線を移し
「逃げるんですよ。人類は恐怖を感じた時、逃げて来たからこそ今があるんです・・安心できる所に身を置き、状況や相手を理解するんです・・」
私は再び娘のバスタオルを捲り
「私に敵意はありません・・恐怖は、凛さんの中にあるんですよ・・」
そう言って、懐に隠し持っていた包丁を娘の目の前に見せた・・
キラリと光る刃先を見つめ、震える娘に
「この包丁を見て恐怖を感じるでしょう。それは、あなたに危害が加えられると感じたからです。でも料理に使ってる包丁を見ても恐怖を感じない・・恐怖は考え方一つなのです・・」
私は、包丁の柄の部分を娘が握れるように差し出すと、彼女は震える手を伸ばし、包丁を強く握ると震えがピタリと収まった・・
「・・怖くない・・私・・全然、怖くなくなった・・」
「おぉ、本当か!」
娘の表情から恐怖が消えたのを見た宮田さんは、嬉しさで娘に抱き付こうとしたが、娘は包丁を振り上げ宮田さんの脇腹から鮮血が飛び散る・・
「近付くな!」
「凛・・」
宮田さんは傷口を押さえてしゃがみ込み、娘が何を考えているのか探るように見つめ、私も状況を理解しょうとした・・
やがて娘はギラギラした目付きで包丁を突き出し、私を睨み付けると
「金を出せ!」
「えっ・・」
私は焦った・・娘が豹変した事に加え、私には金が無い・・安い給料でギリギリの生活をしているのだ・・しかし、金を出さねば身に危険が・・タンスの中の小銭をかき集め65円を渡した・・
「あんた、なめてんの!もっと出しな!」
「すみません・・それが全財産なんです・・給料日前で・・」
「マジで・・お前、終わってんな・・いい年して・・」
見下されたのは仕方ないとして、私は今の暮らしには満足していたので
「金が無くても不幸だとは思っていませんから、毎日を楽しく『うっせぇんだよぉー!てめぇは、意味わかんねぇ事をゴチャゴチャ!貧乏人がぁ!』」
娘は話を遮って大声で罵ると
「殺す価値もねぇ・・」
と呟き、包丁を振り回し、奇声を上げ裸足で雨の中を駆け出して行く・・
「・・・・」
私は、理解できない娘の行動に呆気にとられ混乱しつつも、かなりの出血で苦しそうにしている宮田さんを見て、救急車を呼ぼうとした・・
「救急車は呼ばないで下さい・・」
「どうしてです!放っておいたら命に関わるかも・・」
「大丈夫です・・」
そう言って、痛みを堪えて立ち上がると
「先生・・ありがとうございました・・」
と頭を下げた・・
「ありがとうって宮田さん・・あなたは怪我をして・・娘さんは何処かへ行ってしまった・・私は、なんの力にも成れなかったんです・・」
「そんな事はありません!先生は娘を恐怖から解放してくれました」
「解放?・・包丁を振り回す事がですか・・あぁ、娘さんが心配だ・・連れ戻さなければ、何か悪い事件を起こしますよ・・」
「これでいいんです・・これ以上、娘の事は放っておいて下さい・・」
「何故です?」
「娘は精神病院から連れて来たんです・・入院しているのを私がこっそりと・・」
「えっ・・何故そんな事を・・」
「病院で何かに怯え、常に恐怖と戦っている娘が不憫で・・先生なら助けてくれると思ったんです・・」
宮田さんは、傷口を押さえる指の間からポタポタと血が滴り落ちていたが、笑顔を見せ
「おかげで娘は元気になった・・あんなエネルギッシュな娘を見たのは初めてです!恐怖に打ち勝ったんですよ!本当にありがとうございました!」
改めて礼を述べた・・が、私は宮田さんが勘違いをしていると感じた・・
「宮田さん・・恐怖に勝つには、相当な勇気を持って立ち向かわなければ成らない・・しかし、娘さんは恐怖を狂気で押さえ込んだ・・つまり恐怖に負けたって事です・・今頃、娘さんは訳も分からず、目の前全てに敵意をむき出しに、もがいている事でしょう・・早く保護してやらねば・・」
「そんな・・」
宮田さんは溜め息を漏らし、出血からかガックリと膝を付く
「大丈夫ですか!」
私が駆け寄ろうとした時、遠くにパトカーが何台も連ねて走るサイレンの音が聞こえ、私は悪い胸騒ぎと共に宮田さんの肩に手を掛けると、宮田さんは穏やかな表情を見せ
「大丈夫!仮に娘が事件を起こしたとしても無罪放免、精神病院に戻るだけですから!」
「そんな無茶な~・・」
(おわり)