1-5 まるで風のように柔らかく
例えばクラスメイトが転校してしまう時。
女子生徒が率先してプレゼントを用意したり、仲の良い友達だったら、ちょっとした送別会をしたりする。
けれどシュウイチさんに対してはどうしたら良いのか解らなかった。
一日欲しいと言ったのは、もう二度と会えなくなるという心の準備を自分自身でしたかったからだ。
何故だか解らないけど彼との時間は、今まで経験したことがない程に特別な気がした。
たった一週間、それも特別な会話をしたわけではないのに。
こんな出会いは、多分死ぬまで出来ないと感じた。
不思議で、とても切ない出会い。
これで最後だ。彼を目に、心に焼き付けようと思って、公園に出掛ける。
やはり同じベンチで彼は遠くを見ていた。
こんにちはと声を掛けて自転車を止め、隣に座る。
何も言わず、彼は優しく微笑む。
「お願いがあります」
前を見据えたまま口を開いた。こちらを見ている気配を感じながら、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「俺の血を、吸って下さい」
驚きの感情が伝わって来た。息を飲んでいた。俺は続ける。
「俺が目撃した、あの女の人みたいに、あんな風じゃなくて。俺は、シュウイチさんの事を覚えておきたい」
そっと左手を伸ばし、彼の右手を掴んだ。一瞬の震えを感じた。握る手に力を込める。
「忘れたくないんです」
思っていたよりもひんやりとした手だった。
俺が彼の手を握っていたのは、ほんの少しの間。手がやんわりと引かれ、手を離すと彼は黙って立ち上がる。
俺に背中を向けたまま、忘れた方が良いのに、と呟くのが聞こえた。
「そんな事ないです」
背中を見上げていると、切なさがこみ上げて来た。声が少し震えた。お願いしますと言う声が、途中で途切れそうになるくらい。
黒いコートの裾が揺れた。振り返り、俺達は一瞬見詰め合う。
すっと彼の両手が上がり、俺の首筋へと伸びる。
どきんと心臓が鳴った。着ていたシャツのボタンが二つ程外され、襟がぐいと右に引っ張られる。
顔が、とても近くにあった。
初めて彼を見た時、射る様な視線に戸惑ったけれど、今は違う。
どうしても涙が出そうになる。
彼が首を傾げる様に顔を近付け、首筋に彼の息がかかる。
温かい唇の感触。俺は目を閉じる。
ちくんと痛みが走り、小さく呻いてしまう。
どくんどくんと鼓動が耳元で鳴っている気がした。
長い時間だった様に思う。でも実際はほんの数分、数秒の出来事だったに違いない。
彼がゆっくりと離れ、唇を手の甲で拭うのをぼんやりと眺めた。
右手で彼が血を吸ったであろう箇所を押さえた。押すと鈍い痛みがある。
手を戻し、首筋に触れた指先を見る。手に血が付く事もない。
本当にほんの少しだけ吸ったんだ。別に血を吸わなくても良い時期に、俺の願いを叶える為だけに彼は血を吸ったのかもしれない。
きっとそうなのだと思う。
「有難う」
俺が言いたかった言葉を、彼が言った。
驚いて見上げる俺に、君に会えて良かったと彼は微笑んだ。
「本当言うと、少し諦めかけてたんだ。アイツにはもう会えないかもしれないって。でも何でかな。君を見ていたら頑張れる気がして」
拭った手の甲を舐めて、その手をコートのポケットへと突っ込む。そしてそのまま俺に向かって礼をするかの様に、少し前屈みになった。
「君がちょっとあの頃の俺と似ていた所為かもしれない。自分とは違うのにアイツに惹かれて、何だか無性にアイツの傍に居たくて、アイツと同じになりたかった」
思い上がりだったら悪いけど、と微笑む彼に俺は首を振る。
惹かれています、と言いたくても言葉にならない。
探すよ。
風に掻き消されそうなくらい小さな声がした。
「絶対アイツを見付けてみせる」
視線が絡み合った。俺は頷く。
彼は俺に一歩近付き、有難うともう一度言った。
そして。
ふわりと頬に触れた彼の唇。
まるで風の様に柔らかく、殆ど熱を感じない微かな接触。
夕焼けが俺達を包む。
彼は歩き出す。
今度はもう引き止める事は出来なかった。
彼の背に向かって言葉をかける事も出来ず、立ち上がる事も出来ず、俺はベンチにもたれたまま彼を見送る。
彼は振り返らない。
ゆらりと彼の背中が揺れ、俺は自分が涙を流している事に気付いた。
切なくて切なくて。
シュウイチさんが好きだったんだとその時初めて自覚した。
手の平で涙を拭う。
顔を上げた時、辺りは一面オレンジ色だった。
秋一さんは、行ってしまった。
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