3-4 まさか
ベンチの前には遊歩道が通っている。
青年は左側に現れ、正面を通り右へと行ってしまうのだろう。
近付いて来るのが解る。
どうしよう、顔が火照る。
組んだ手に力を入れ、視線を手に固定した。
高鳴る心臓に反して、心に生まれる僅かな恐れ。
強くなる匂いと、聞こえて来る足音。
青年の足が視界に入った。黒い靴。ゆっくりとした足取り。
右、左、右、左。
数える訳ではないけど、自然と視界に入る青年の足に集中してしまう。
明日、と思っていた。
でも今が最後にしようと思う。今までで一番青年に近付く事が出来た。それで充分だと本当に思った。
カツン。
足音が、止まった。
正面で。
足はゆっくりと向きを変え、こちらに正面を向く形になる。
顔が上げられない。
別に何という事はない。やあ、と言ってしまえば良いではないか。昔彼に言った様に。
でも声が出ない。身体が動かない。
青年は一歩前に出た。一歩、こちらに近付いた。
日が傾き、辺りが薄暗くなって来た中、青年の影がこちらに伸びた。
「いつになったら、声を掛けるの」
そんな声が降り注いで、今までの震えとは比べ物にならない、電流の様なものが身体中を駆け巡った。
こちらを向いた足、重なる影、この声。
「やっと会えたのに、又置いて行くつもり」
その言葉の語尾が震えた様に思えて、やっと固まっていた身体を少し動かせた。
油の切れたロボットの様にぎこちなく、ゆっくりゆっくり顔を上げる。
顔には影が掛かっている。
まさか、と自分の声とは思えない程に擦れた声が出た。
薄暗い中、その瞳に涙が溜まっているのを確認出来た。
唇を動かした。アキ、と。今度は音にならない。
「どれだけ探したと思っ」
言って、アキ、は。
秋は手で唇を覆い、横を向く。
俺、は。
弾かれた様に立ち上がった。
まさかまさかまさか。
頭の中でぐるぐると可能性を考える。まさか。
横を向いた秋の腕を取り、強引に自分の方へと寄せた。よろめき、胸にトンと彼の身体が当たる。
フワリと香って来る彼の匂い。瞬間その匂いにくらりとする。
「まさか」
腕を上げ、彼の顎に手添えて上を向かせた。涙に光る瞳が、俺を真っ直ぐに捉えた。
ぎゅっと胸が痛んだ。鼻の奥がツンとして、ゆらりと視界が歪む。
別人では有り得ない。間違えるわけがない。これは。
背中に腕を回し、抱き締める。腕の中に収まる一六五センチの細い身体。
この感触を忘れるわけがない。
「信じられない」
抱き締める腕に力を込める。
「秋だ。信じられない。また」
又、会えるなんて。
彼には限りある人生をと望んでいたのに、今日のこの日までたった独りで。今まで俺が味わった同じ孤独を、彼に与えてしまっていたなんて。
信じられない、ともう一度呟く。
秋の腕が、背中に回った。回された腕がきつく絡み付く。
「如月」
名を呼ばれた。
秋と別れて以降、俺の名を呼ぶ者は居なかった。
こんな風に、それもまさか秋に。
本人に又呼んで貰える日が来るとは思わなくて。
「もう一度」
震える声で言うと、会いたかったよ如月、と秋は応えてくれる。
日が完全に落ち、公園の外灯に灯が点る。
外灯と外灯の間に位置したベンチの前で、俺達は薄暗い中互いの名を呼び、互いの存在を確かめ合い、いつまでも抱き合っていた。




