(7)
日もすっかり落ちきり、月明かりと屋敷から漏れ出す光が静かに暗闇を照らす頃、オズワルド邸の正面玄関の戸が叩かれた。
「はい。どちら様でしょうか?」
その音に、たまたま玄関の近くを通りかかったメイドが反応して戸を開ける。奇しくも、レティシアの世話をしている若いメイドだった。
「ああ、良かった。広い屋敷だから、気づかれなかったらどうしようかと思ったよ」
そこに居たのはウィルだった。相変わらずの軽口と、気の抜けた笑顔を覗かせている。
とはいえ、一応は心証が大事な傭兵をやっている身。不審げな顔をされる前に、ウィルは懐から依頼書を取り出してメイドへと手渡した。
「俺は傭兵のウィル。オズワルド准将に雇われてさっきまで基地の方に居たんだが、仕事が終わったら屋敷の方に行くよう言われてな。その依頼書に書いてある通りだ」
「ええと……ひょっとして、リラさんの……?」
受け取った依頼書に目を通しながら、メイドはおずおずと問いかける。
「ああ、リラは先にこっちに来てるんだよな。……あいつ一人で向かわせるのはちょっと不安だったんだが、上手くやってるか?」
半分以上が本音の軽口を漏らすと、メイドは一瞬の間を置いてから思わずというように苦笑を浮かべた。
「……そうですね。その、少し物静かで不思議な方ですけれど、レティシア様とも仲良くなられて。えっと、ちょうど今は……」
言いつつ自身の背後へと目を向けるメイドにつられて、ウィルもメイドの脇から屋敷の中を覗き込む。
と、タイミングよく、玄関の方へと歩いてくる白い影が見えた。
「ん……、リラか?」
「ウィル。……遅い」
ウィルの姿を認めたリラは、開口一番に不満げな声を漏らす。
一瞬、ウィルがリラの姿を認識するのに間があったのは、その服装の所為だろう。
リラはいつも着ている簡素な服と薄汚れたローブではなく、柔らかい布地の寝間着を身に纏っていた。
寝間着は淡い乳白色をしていて、それだけで普段のリラとは印象ががらりと変わる。リラの灰白色の髪も、心なしか明るく見えた。
「なんだ。随分と似合った恰好じゃないか。いつもの服よりずっと良いぞ」
「ここは危険。煮込まれかけた」
「煮込まれ……?」
「もう。まさかお風呂に入れるだけでこんなに苦労するとは思わなかったわ」
リラの言葉にウィルが疑問符を浮かべていると、リラの後ろから呆れ交じりの表情でレティシアがやって来た。
レティシアも、リラと同じような色合いのワンピースタイプの寝間着を着ている。元から着飾っていたわけでもなかったが、他人に見せるためのものではない気の抜けた服装は、いつも以上に年相応の幼さを感じさせる。
「……レティシア」
「不貞腐れた声を出さないの。リラだって女の子……というか、女の子じゃなくても、このくらいは身だしなみとして当たり前のことよ?」
「……お湯と泡は、当り前じゃない」
「ああ、リラはそもそも水浴びとか嫌いだからなぁ。それがこんな屋敷で風呂となったら、戸惑いもするか」
二人のやり取りを傍目に眺めていたウィルは、それだけで何となく状況を察して独り言ちる。
その声に、レティシアはリラへと向けていた顔をウィルへと向けて、彼女らしい楽しげな笑みを浮かべた。
「こんな格好でごめんなさい。貴方はリラの……お兄さん、ではないわね」
「はは、この髪の色で兄妹だったら驚きだな。俺はウィル。リラとは……まあ、傭兵仲間ってところか」
「ウィル。……そう、確かに何度か、リラの話に名前が出てきていたわ」
「……何を話されてたのかは、聞かないでおくかな」
「賢明な判断ね」
そんな毒にも薬にもならないようなやり取りで、けれどもウィルの人となりをある程度推し量れたのだろう。レティシアの、表情からは窺えない程度にあった初対面の人間に対する警戒が緩むのを、ウィルは感じ取った。
レティシアはウィルを見上げて、手を差し出す。
「レティシアよ。そう呼んで頂戴」
「ん? ああ、分かった」
その手を取りつつも、わざわざ名前呼びをするよう強調する様に若干の違和感を覚えるが、触れないでおく。ある程度の信頼関係が構築できるまでは、何事も深く追及することはせずに従っておくというのが、ウィルが傭兵生活の中で身に付けた処世術の一つだった。
ウィルの些細な思案には気づくことなく、レティシアは続ける。
「それで、一体どんな御用? リラの様子が心配で見に来たのかしら?」
「まあ、それもあるんだが。ここの主様が言うに、兵舎は今、人がいっぱいの状態らしくてな。適当な宿に泊まられて所在が分からなくなるのも手間だから、屋敷で寝泊まりすればいい……と、何ともまあ寛大なご配慮を戴いたんだよ」
屋敷の主、オズワルド准将のその提案は、ウィルが屋敷を自由に使わせてもらえるほど信用されている、というよりは、空いている宿泊場所があり、かつ仲間であるリラもいるのならそこに放り込んでおいた方が分かりやすい、という合理的な判断によるものだった。
ウィルにとってすればこれもまた悪い話ではないので拒否する理由もなかったが、ここまで無頓着に屋敷の門を開かれては、苦笑いの一つも出るというものだ。
オズワルドの提案と聞いて、レティシアは一瞬だけムッとした表情を作るが、すぐに澄ました顔を取り繕う。
「そう。あいつらしい人間味の欠片もない判断ね」
「……あー、一応、屋敷の居住者、要はレティシアが嫌がるようなら、メイドさんに頼んで近場の宿を手配してもらうようには言われてるぞ」
隠しきれない苛立ちが棘のように見え隠れする端的な言葉に、ウィルはそんなフォローを入れる。
レティシアは、小さく鼻で笑ってそれを一蹴した。
「その言葉で、拒否するという選択肢が完全に消えたわよ。そんな気遣い、されてると思うだけで鳥肌が立つわ」
「そ、そうか。いや、俺としては有難いことだな、うん」
名前で呼ぶように言ってきたことといい、どうにもオズワルド家の親子関係は上手くいっていないらしい。とウィルは内心でため息を吐く。
そのまま気まずい空気が流れるかとも思われたが、意外なことにレティシアはけろりと表情を戻して、悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「安心して頂戴。別にそうじゃなくても、追い出すつもりなんてなかったから。貴方のことはまだよく知らないけれど、何といってもリラのお知り合いですもの。悪い人じゃないでしょう。ね、リラ?」
そうしてリラへと話を振る様子は楽しげで、先ほどの棘のある言葉などどこへやらといった様子だ。
オズワルドのことは嫌いだが、それとウィルに対する態度とはまた別といったところか。そんな風に感情を割り切っている辺り、あどけなさの残る見た目やはっきりとした物言いとは裏腹に、内面は随分と大人びている。
「うん。ウィルは悪者じゃない。……多分」
「……そこは確信を持っていて欲しかったな」
無表情ではあるが、これもリラなりの冗談だと思いたい。
少なくともレティシアはそのように受け取ってくれたのか、さして気にすることもなく、隣に控えているメイドへと目を向けた。
「来客用の寝室は、まだ物置にはなってなかったわよね?」
「はい。定期的に清掃は行っていますから、多少の手入れだけさせていただければ、すぐにでも使用できます」
「そ。ならお願いね。リラは私の部屋に泊まってもらうから、一部屋でいいわよ」
「……聞いてない」
「あら、護衛なら、いつでも傍に控えているのは当たり前のことじゃない?」
ポツリと呟かれたリラの言葉に、レティシアは何でもないことのように返した。
昼過ぎに門の傍で別れてから、リラにどのような交流があったのかウィルには知る由もないが、この半日足らずで随分と気に入られたらしい。
「とりあえずは、客間にでも案内しておきましょうか。夕ご飯は済ませているかしら?」
「ん、ああ。簡単に基地の方で振舞ってもらったよ」
基地で支給された夕食は、お世辞にも味がいいとは言えなかったが、無料で量もそれなりとあっては文句も言えない。
「なら、そっちの準備は必要ないわね。私たちはもう食べてしまったし」
「豪華だった」
「……そうか」
と、自分を納得させていたというのに、そんなことを言われてしまっては、否が応にもこの屋敷で出されたであろう食事と、基地で出された食事とを比べてしまう。少なくともリラの呟きは、当てつけで間違いないだろう。
苦笑交じりに頭を下げてその場を去っていくメイドを傍目に、ウィルも息を吐く。
「……まあ、リラがそれなりに上手くやってそうだと分かっただけ、良しとしよう」
「ウィルに心配されるまでもない。余裕」
「そのどこから来るのか分からん自信は凄いと思うがな。今までの経験上、初対面のお前を風呂にまで入れられるレティシアが只者じゃないだけだ」
「そう? 誉め言葉として受け取っておくわね」
気の抜けた雰囲気は、それだけリラに気を許しているということの表れか。年が近いとはいえ、人付き合いというものが苦手どころか、分かっているかどうかさえ曖昧なリラを相手に、これだけ戸惑い無く接せられるというのは素直に驚かされる。
「でも、それは勘違いというものよ。私、好き嫌いははっきりしている方だもの。そんな私に気に入られるくらい、リラが楽しい子なだけよ」
言葉通りの、気持ちの良いほどにはっきりとした口調は、そこにお世辞や謙遜といった色が含まれていないことを伝えてくる。
ともあれ、リラとレティシアが仲良くやれているというのなら、それ以上の詮索は不躾というものだろう。
ウィルはとりあえずと、首を傾けて見せた。
「そういうものか?」
「ええ。こんなに楽しい来客、この屋敷に住んでいて初めてのことだわ」
そう答えるレティシアの笑みは、内面から思わずにじみ出てしまったというような、年相応の子供らしい笑顔に感じられた。