牢の中で 2
苔とカビの匂いが染みついた牢の中が、私の住処だった。
空間として見ればそれなりの広さ。壁の端から端まで、私の足で六,七歩ほどだろうか。鉄格子の外の通路に疎らに設置された松明の明かりが、ギリギリ隅まで届くくらいの広さだ。
ここは地下なのだろう。少なくとも私がここに入ってから、松明以外の明かりが漏れ入ってくることはなかった。
湿っぽい岩の壁に囲まれた空間には何も無い。壁の遥か上に、換気用の小さな穴が見える程度だった。
そんな場所で何が出来るわけでもないので、ボロ布を纏った私はいつも凸凹の床に横たわったり、座り込んだり、とにかく少しでも体力を使わない体勢になってジッとしていた。
そうして時間が流れるのを待っていると、そんな世界にも規則的な変化が訪れる。
鉄格子の外から金属がガチャガチャとぶつかり合う足音が聞こえてきて、私は横たえた体を起こす。
しばらくすると、鉄格子の向こうに甲冑を着た何者かが表れた。兜で顔は隠れていて、性別も良く分からない。知ったところで意味もないことだが。
甲冑は私の牢の前で立ち止まり、腰に下げられた鍵を取って面倒くさそうに鉄格子の鍵を開ける。
錆びた鉄の不快な音と共に、格子の扉が開く。
甲冑は牢の中へは入って来ようとしないので、私は立ち上がって、自分で甲冑の元まで歩いて行った。従わずにいたら、きっと甲冑はこれまた面倒くさそうに掴みかかってきて、牢から引きずり出されることになるのだろう。そんなのは私も面倒だ。
私が牢から出ると、甲冑は無言で歩き出す。私もその後を追った。
甲冑の背は無防備で、不意を突けば逃げ出すくらいは出来そうだと思考したこともあったが、この一人を撒いたところで、道も分からぬこの場所から逃げ切ることは不可能だろうと考え、止めていた。
牢の中と比べれば多少整備された跡の見える薄暗い通路をしばらく歩き、いくつかの部屋を抜けると、他の簡素な造りのものとは明らかに違う、分厚い鉄の扉が見えた。目的地だ。
甲冑がその扉を開ける。促されるほどの間も置かず、私はその扉をくぐる。
扉の先は、部屋というよりも小さめの広場というほうが的確な雰囲気だった。壁の向こう側まででも、三十歩以上は優にかかる。
そして、向こう側の壁はこちらと違い、巨大な鉄格子が降りていた。
広場の壁には松明が等間隔で並べられていて、広さに似合わぬ明るさが保たれているが、その鉄格子の先は黒い闇に覆われている。
私が広場に入ったのを見届けると、甲冑は改めて扉に手をかける。重苦しい音と共に、扉が閉められる。
これで広場には私一人だけになった。どうせ、どこからか誰かが見ているのだろうが、私には関わりのないことだ。
私は歩いて行って、すぐ前にぽつんと置かれている鉄の塊を手に取る。拳銃だ。
最低限、弾詰まりだけは起こさないよう整備されたそれは、ここでの私の武器であると同時に、私が生き残るためのノルマのようなものでもあった。
手に握った感触を確かめる。
「……四発」
重さからして、今回のノルマは四発か。
私が拳銃を手に取ると、向かいの鉄格子が音を立てながら開かれる。
その先の暗闇から、低いうなり声と共に一匹の魔獣が姿を現した。
頭は狼のような形をしているが、二足で歩いている。体中が黒く深い毛で覆われているのと、先ほどの甲冑と比べても軽く二回りは大きな体躯を除けば、人間と大差ない体つきと言えるかも知れない。
隠れる場所もないこの広間で魔獣と相対するとなれば、これから起こることも必然。
私の姿を視界に捉えるなり、魔獣はけたたましい咆哮を一つ上げて、私目掛けて駆け出した。
この魔獣は、駆ける時には四足になるらしい。器用だ。
あと一歩。と、魔獣が私に食らいつこうと口を開き、最後の一歩を踏み込もうとした瞬間に、私は真横へと跳ねた。
魔獣の目測は外れ、魔獣は空気を噛み締める。
結論から言えば、この初撃が一番危険だった。転がるタイミングが遅ければそのまま牙の餌食、早ければ方向転換と共に振るわれた前足に切りつけられると同時に、そのまま組み伏せられていたことだろう。
魔獣は私との間合いが狭まったことで噛みつくことを諦め、立ち上がると同時に前足を振り回してきた。
前足には私の指よりも長く、刃物のように鋭い爪が生えている。
纏っているボロ布に、防具としての効果は当然期待できない。まともに喰らえば即死か、そうでなくても動けなくなって食い殺されるだろう。掠めるだけでもかなり痛そうだ。
とはいえその攻撃は大振りで、避けるだけならそう難しくもない。
切りつけるようにも殴りつけるようにも見えるその攻撃を、じりじりと間合いを取りながら躱す。
三発目。ひときわ大振りでかつ高い位置の一撃を、私は屈んで躱すと同時に、そのまま転がるようにして魔獣の股下を潜り抜けた。
それから見定めた魔獣の間合いからさらに半歩の位置で、私は銃を構える。
私の姿を見失った魔獣は、考えもなしに振り返る勢いのままに前足を振るう。
当然のごとく、前足から伸びた爪は私の目の前の空を切った。そうして残るのは、無防備に不安定な体勢を晒す巨体。
拳銃の弾が魔獣の皮膚を貫けるかは、よくて半々といったところだろう。弾数が四発しかない今、そんな賭けをするわけにもいかない。
けれどもこの状況。私がほんの一瞬の狙いを定める時間と、魔獣が顔を背ける余裕も持てないタイミング。この状況であれば、関係ない。
引き金を引いた。聞き慣れた発砲音が耳を刺激する。
射線には寸分の狂いもなかった。銃口から伸びる弾道は、過たず魔獣の顔面、その右の眼を捉えていた。
刹那、銃声など掻き消えてしまうほどの咆哮が辺りを包む。鮮血が飛び散り、魔獣は大きく仰け反った。
ここからは、一息のうちの勝負。
私はその背後に回り込むように駆け、たたらを踏んで後ずさるその軸足の関節に、二発目の弾丸を発砲する。
巨体はバランスを崩して僅かに宙に浮き、それから仰向けに崩れ落ちた。
魔獣の顔面が、私の足元に転がった。銃口は既にそちらへ向けてある。
残りの弾丸が二発。左目と、だらしなく開け放たれた口の中へと発砲して、私は飛び退って距離を取った。
そのまま静観する。致命傷は与えたはずだが、これで動けるようだと困る。
弾丸を撃ち尽くした今、私に残された手は多くない。精々拳銃で殴りつけるくらいか。
それでも、そんな心配は杞憂に終わったようだ。ビクビクと二,三度痙攣してみせてから、魔獣は動かなくなった。
「………………」
そこでようやく、私は息を吐いた。
拳銃と数発の弾丸を持たされ、魔獣と対峙する。
何かの実験か、趣味の悪い見世物か、あるいはその両方か。
この行為に何の意味があるのかなど、同じようなことを二桁以上も繰り返していれば、もはや疑問にも浮かばなくなった。
殺さなければ、殺される。ここはそういう場所だ。
それだけが明確な事実で、それだけ分かっていれば充分だ。
私は拳銃を放り捨てて、入ってきた扉へと向かった。
私がたどり着くよりも前に扉は開かれる。その奥には甲冑が見えた。やはりこの甲冑か、あるいはこの甲冑に指示を出せる誰かが、先ほどの戦闘を覗いているらしい。
行きのように甲冑の後に付いて行き、薄暗い部屋に入る。怪我を負っていた場合は、この前に粗末な医務室で気休め程度の応急手当てをされるのだが、今回はなしだ。
狭苦しい部屋にあるのは小さなイスとテーブル。テーブルの上にはいくつかの食べ物が並んでいる。
言わば、生き残った報酬といったところか。
柔らかいパンと、水気を含んだ果物。ほんのりと味の付いた何かの干し肉。
二十時間ほどに一回程度の割合で牢に運ばれてくる、乾いてひび割れた固いパンと、野菜の切れ端が浮いた水のスープに比べれば、随分とまともな食事だ。
あまりのんびりしていて食事を取り上げられでもしたら困るので、なるべく急いで口の中へと詰め込む。そんな心配がなくとも、常に空腹が付きまとっているこの身体は、急ぐことを止めなかっただろうが。
結局、十分足らずでテーブルの上の食べ物は全て胃袋に収まった。
最初の頃こそ、そうして多少なりとも空腹が満たされると、もう少し味を感じながら食べてもよかったのではないかという思いも沸いていたが、下手に味を覚えてしまうとそれはそれで平時の味気ない食事が嫌に鮮明に感じられてしまうことを知ってからは、そんな感情も抱かなくなった。
それが済めば、私の数少ない牢の外での活動は終わりだ。牢に戻って、鉄格子の鍵を甲冑に閉められる。
こんなことが、牢に食事が運ばれてくる回数で言うと七回の間に一度ほど。怪我を負ったりしていれば、その程度によって十から二十回に一度ほどの割合でやってくる。
毎回生きるか死ぬかの選択をさせられるのは大変だが、とはいえそれ以外にやることもない上、これで得られる食事が無ければ恐ろしく空腹になるので、牢の中ではこの時が来るのをぼんやりと待つのが日課だ。
僅かばかりの配給と、座興じみた戦い。この二つだけが、私の身の周りで起こる変化だった。
あの日までは。
何か特別な予兆があったというわけでもない。その日は唐突にやってきた。
牢の中で横になっていた私は、ガチャガチャという足音で目を覚ました。
それが甲冑の足音だというのはすぐに分かったが、食事が運ばれてくる時間でも、外に連れ出される時間でもない。
珍しいことだとも思ったが、何かの理由で前の通路を通り過ぎる用でもあったのだろうと無視していると、足音が止まった。
牢の扉が開けられる音がする。
食事であれば鉄格子の隙間から入れられてくるので、扉が開くということは私にとって外に連れ出されるということを意味している。
あまりにぼんやりしすぎて私の体内感覚が狂ったか、それとも連れ出されるタイミングが変化したのかと、多少の不審を覚えつつ体を起こそうとしたが、開かれた扉の方へ顔を向けたところで、それが間違いであると分かった。
開けられた扉の前に居たのは、小さな女の子だった。
歳はいくつくらいだろうか。比較対象になるものを知らないので推定しかできないが、十から十二くらいといったところか。
この薄暗い牢の中でも良く目立つ、背中の辺りまで伸びた真白い髪が特徴的だ。
甲冑に突き飛ばされるようにして、少女は牢の中に入ってきた。
はっきりとした色合いの、溶け込むような金色の瞳が私を捉える。
「……ぁ…………」
目が合ったことに気が付いた少女は、微かな声を漏らしてから、ただ一度だけ困ったような笑みを浮かべて見せた。
喧しい音を立てて扉が閉じられ、甲冑が歩き去っていく。
そうして甲冑が居なくなってしまえば、この空間には私と少女の二人だけだ。
しばらくの間、少女は鉄格子の近くで立ち尽くしていたが、やがてそうしていることに疲れたのか、私の方を伺いつつも私からは離れたところに、膝を両腕で抱えるような姿勢で腰を下ろした。
元々私一人には広すぎる牢だ。住人が一人増えたところで窮屈に感じることもない。
少女が私のところに来た理由は分からないが、そうでなくても理由の分からないことばかりのこの場所で、そんなのは些細なことだろう。
何となく気になって、少女の方を見る。
と、少女もこちらの様子を窺っていたのか、一瞬だけ目が合って、それからふいと少女は自分の膝の間に顔を埋めてしまった。
少女の真白い髪がふわりと垂れて、余計に顔が窺えない。
その髪はこれまでも私と同じような境遇にあったのか、整えられているわけではない。けれども松明の僅かな明かりを受けて映えるその白色は、そんな些末なことをものともせずに、私の目を惹き付けた。
「っ…………」
思わず顔を背け、少女に背を向けるように横になっても、目に焼き付いたその色合いが消えることはなかった。
こんなにも強烈な印象を抱かせるものに出会ったのは、いつ以来だろうか。ここに来る以前の記憶もほとんどなくなってしまった今では、それこそ初めてなのではないか。
そんなことを思うが、けれども確かに、彼女の白と同じようなものをいつかどこかで見たような気がしていた。
それからというもの、私は牢で横になっている間、ずっとそのもやもやとした記憶の正体を考え続けた。幸い、時間だけはいくらでもある。
考えて考えて、夢とも現ともつかない心地でぼんやりと頭の中を探り続けた。
そうして食事が五回運ばれてくるくらいの時間を経たころ、唐突にその答えは浮かび上がってきた。
それはもはや、いつ見たのかも思い出せない、どことも知らない風景。しかし確かに、その名前は憶えている。
明るい太陽の下。立ち並ぶ木々。その木に咲いた、たくさんの純白の花。
その時から私は、その少女のことをリラと呼ぶことにした。