(34)
軍の基地から、屋敷の方面へと歩くこと数分。住宅地の間を通る路地は昼頃ということもあって、静けさに覆われていた。
しかしそこに含まれる異質な空気を、ウィルは確かに感じ取った。
ここにあるのは、誰もいないという静けさではない。人はいるのに、じっと息を殺して潜んでいるからこそ生まれる静寂だ。
「……なあ、この感じって」
「黙っていろ。ここまで付いてきたなら、姿をくらますような真似もするな」
ウィルが気づけたことに、オズワルドが気づけないはずはない。
ここは既に敵のテリトリーであり、こちらの動きを監視されていることも。彼らの意にそぐわぬ行動を取るのは悪手でしかないことも、分かりきったことだ。
さらにもう数分、オズワルドたちの後を追う人間がいないと、監視の目が確認できるくらいの距離を歩くと、少しだけ開けた場所に出た。
人の住んでいる様子もない空き家が立ち並んだ十字路の、ちょうど真ん中。
そこが指示された場所なのだろう。オズワルドの足が止まる。
すると、それを待っていたのか、建物の影や空き家の中から数人の男が出てきて、二人の退路を塞ぐように取り囲んできた。
「一人で来るよう指示したはずだが、まあいい。わざわざ出向いてもらったこと、まずは感謝する。オズワルド准将」
正面から現れたのは、二十代半ばほどの青年だった。町中ですれ違ったとして、記憶にも残らないような凡庸な風貌に、暗い光を帯びた瞳をしている。
そしてその腕の中で押さえつけられている人影を見て、ウィルは状況を理解した。
「ちっ、テメェら、レティシアを人質に……」
そこにあったのは、青年の左腕に首元を締め付けられるようにして押え込まれている、レティシアの姿。
パッと見では怪我もなく、不安よりも怒りの感情が強そうな表情をしているが、抵抗する素振りはない。それが無駄だということは、既に理解した後なのだろう。
「手荒な形を取っていることは謝罪する。が、押さえる時に少し手首を捻ってしまった以外には、怪我もさせていない。こちらとしても、無益な血を流すつもりはない」
言いながら、青年は開いている右腕を動かして、背中の辺りに差していた拳銃を取り出す。
その銃口をレティシアのこめかみに向けて、青年は続ける。
「昨晩、レジスタンスの命運はほぼ尽きた。魔獣を総動員してなお、この町の門は突破できず、却って我々の拠点が襲撃され、『暴風の主』も捕えられた。残された我々には、もはやこのような手段を取る以外、選択肢はないんだ」
「なるほど。ではこの状況で、貴様らは何を望む?」
「当然、貴方の命だ。クレイグ・オズワルド。この町の要である貴方の首を獲れれば、それが再起の芽となる」
「ふん。隣国との密約、どうやら確かなものらしい。私の首が、交渉の手土産になるか」
危機感などまるで感じさせない、普段通りの重たく冷静なオズワルドの口調に、青年はピクリと眉を動かした。その仕草で、オズワルドの言葉が事実であることが伺える。
しかしそれを悟られたところで、青年の行動に変わりはない。
「二人とも武器を捨て、両手を上げろ。拒否するなら、この娘の頭を撃ち抜く。奪われる者の痛みを、貴方も知ることになるだろう」
「くそっ……」
青年の声に躊躇いがないことを読み取って、ウィルは剣とベルトに付けたポーチ、短刀を地面に落とし、手を上げる。周りを取り囲まれているこの状況で、レティシアを無事に助けだす手段を、ウィルは持ち合わせていない。
ウィルが指示に従ったことで、この場の選択肢はオズワルドに委ねられた。
「……くだらないわね。あんたたち、私の命とこの町を任された准将の命が秤にかけられると、本気で思ってるの?」
その選択が下されるより先に、拘束されているレティシアが声を上げた。
「こうして取り囲んでるのに襲い掛かりはしないあたり、この二人に抵抗されたら敵わないってことでしょ? だから私を人質に取ってる。でも逆に言えば、私を殺したらその時点であんたたちの計画は終わり。こんな安い命を捕まえて、自分からどっちにも転べない状況に追い込まれるなんて、程度が知れるってものよ」
ともすれば相手の神経を逆撫でするだけの挑発だが、その言葉に間違いはあるまい。
彼らにとってレティシアの存在はオズワルドに対する交渉材料であると同時に、自分たちの身を守るための盾でもある。状況が確定するまでは、青年たちもレティシアに手を出せないはずだ。
「無益な血を流すつもりはないと言ったはずだ。あまり騒がないでもらおうか」
「ぐ、ぅ……っ」
青年の腕に力が入り、首が強く締め付けられる。
状況が膠着すれば、オズワルドはすぐにでもレティシアを切り捨て、レジスタンスの制圧にかかるだろう。
レティシアに出来るのは、そのタイミングを少しでも引き延ばすこと。挑発でも悪態でも吐き続け、一秒でも長くこの晩変化をもたらし続けることだけだ
そうすれば、必ず助けは来るのだから。
「そうだな。無駄は省こう」
だというのに、オズワルドは呟くように、けれどこの場全体を支配する重く響く声を発した。
レティシアの意志など関係なしに、オズワルドは動き出す。
その左手は迷うことなく腰に差された剣の鞘へと伸び、そして。
「──ぇ」
鞘ごと剣を腰から取り外し、眼前へと取り落とした。
さらにとオズワルドは軍服の上着を脱ぎ落し、他に武器なども持っていないことを示す。白いシャツの下には、昨夜ヤトによって刺し貫かれた肩の傷跡を覆う、包帯が見て取れた。
「な、何してんのよ……?」
そのまま眉一つ動かすことなく、両手を上げるオズワルドに、レティシアは唖然とした表情で言葉を漏らした。
「何のつもり? 冗談にしたって笑えない。そんなことして、あんたに何の得があるっていうのよ……! 私は、あんたが善人ぶるためのただの駒で……。いいえ、そんなのがなくったって、何の力も持ってない私の命と、この町を守る軍の要であるあんたの命、どっちが大事かなんて考えるまでもないでしょ! あんたがここで、そうやって手を上げてみせる道理も理屈も、どこにもないじゃない!」
激昂のようにも悲鳴のようにも感じられるレティシアの声が、辺りに響いた。
「道理や理屈、か」
そんな声に、オズワルドは小さく口の端を歪める。
「なるほど。確かに私は、道理や理屈といったものを重んじる。それらは正しい道筋を示す指針となり、それらに沿う行動というのは、人々の理解を得る上でも重要な要素となるからだ」
おおよそ万人が抱くであろう、オズワルドの印象通りの言葉。
そこにオズワルドは「だが」と言葉を続ける。
「それはあくまで、方向を見定める道具としての話だ。それらを用いようがいまいが、最終的な私の行動は、私の意志によってのみ決定づけられる。この場において、まず何よりも優先されるべきはレティシア、お前の命であると判断した。これが、私の意志だ」
この状況を望んでいたであろう、レジスタンスの面々でさえたじろいでしまうほどの、迷いなど微塵もない声。
レティシアは、それに返す言葉も見つけられない。
「その腕を放してもらおうか。負傷した男一人を殺すのに、それは過ぎた荷物だろう」
「っ……。我々にも、義というものがある。貴方の死を確認した後、この娘は無事に解放することを誓おう」
「そうか」
僅かに動揺をみせつつも青年は答え、銃を持った腕をオズワルドへと伸ばした。
ゆっくりと正確に急所へと狙いを定めるのには、あるいは敬意の意味も含まれていたことだろう。
「ふっ……くく、あはははは!」
そこにもたらされた静寂を、唐突なウィルの笑い声が打ち破った。
青年の腕が微かに揺れる。
「な、何が可笑しい?」
「いや、悪い。准将はやっぱ、話が早いなと思ってさ。大切なものと自分の命とを天秤に乗せて、どっちかを選べなんて、誰だってそう簡単に決断出来るもんじゃないってのに。ただ、今回は流石の准将も、ちょっとだけ間違いだ」
軽口交じりの調子で、ウィルは楽しげに言った。オズワルドが、小さく眉を顰める。
「レティシアの命が第一。それはいい、俺も賛成だよ。けど、こういう理不尽な選択ってのは、結局どっちを選んでも後悔が残るもんだ。ここでレティシアが死んでも、准将が死んでも、誰かが後悔する。そうやって過去を悔やんでる奴を、俺は知ってるんだ」
そう言って、ウィルはちらりとレティシアを見た。
当然、レティシアも気づいた。ウィルが誰のことを言っているのかを。
「だからこそ、そいつはもう間違えないよ。どちらかを選べと天秤を突き付けられたなら。──天秤をぶっ壊して、どっちもかっさらってやるのが正解だ」
瞬間、銃声が鳴り響く。
どこから、と反応する間もなく、青年の手に握られていた拳銃が、虚空へと弾き飛ばされていた。




