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牢の中で 6

 リラが牢の中から居なくなってしばらくの間は、取り立てて記憶に残ることもなかった。

 ようやくその時が来たのは、数度食事の配給があった後のこと。

 甲冑がいつものように気だるげな様子で扉を開けたのを感じて、私は久しぶりにはっきりと意識を覚醒させた。

 前の戦闘からの期間を思えば、それは普遍的なタイミングだったのだろう。ただ私が、そのことにすら気づかぬくらい意識を閉じ込めてしまっていただけのこと。

 動く気も湧かなかったが、私は無理やりに体を起こして立ち上がった。気力が湧かないからと甲冑が待ってくれるわけでもないし、何より動いていれば、このいつまでも纏わりつくもやもやとした感覚も晴れるのではないかと思えた。

 甲冑の後に付いて歩く間も、思考はどこかぼんやりと宙を漂っていた。

 これからまた魔獣との戦いだ。回数を重ねるごとに、魔獣は強く、ノルマは厳しくなっている。少しでも気を抜けば、命取りになるのは間違いない。それなのにも関わらず。


 いつも通りに広場へと続く扉をくぐったところで、いつもとは違うことが起こった。

 普段は扉を開けて、閉めるだけの甲冑が、私の後に続いて広場へと入ってきたのだ。

 それから甲冑は扉のすぐそばにしゃがみ込んで何かを拾うと、私の下へと向かってくる。

 手にしていたものの正体はすぐに分かった。鉄で出来た首輪だ。

 首輪にはこれまた鉄で出来た鎖が繋がっていて、それは地面をある程度の長さ這った後、広場の天井に小さく空いた穴へと伸びている。

 甲冑はガチャガチャと金属音を鳴らしながら私に首輪を嵌めた。輪は私の首に対しては随分と緩いので苦しくはない。少し重たい程度だ。

 それを終えると、もう用は済んだとばかりに甲冑は広場を後にして、扉を閉めた。

 それには目をくれる気も起きず、私は前へと歩を進める。

 少し行ったところに、いつものように拳銃が落ちていた。拾い上げて、重さを確かめる。弾は一発しか入っていないようだった。

 首輪は鎖が長いこともあって、さほど障害にならないだろうと思ったが、弾丸が一発しかないというのは少し困った。一撃で仕留められるような魔獣が相手なら良いのだが。

 そんな風に思っていると、奥にある鉄格子が音を立てて開いた。そして。

 その奥の暗闇から、リラが姿を現した。


 思考が、固まる。

 リラは私の姿を認めると、小さく口を開いて驚いた顔を作った。こちらまでは届かなかったが、あるいは声も漏らしていたかも知れない。

 片手を腹部にあて、少しだけ背中を丸めるような姿勢ではあるものの、きちんと立てている。牢に居た頃と比べたら、ずっとマシだ。あるいは、ちゃんとした治療をしてもらえたのだろうか。

 そんなリラの後ろから、甲冑が姿を現す。私をここまで連れてきた甲冑とは別人だろう。

 甲冑は私の時と同じような流れで、リラへと首輪を嵌めた。その首輪から伸びる鎖も、リラの側の天井にある小さな穴へと続いていた。

 リラに首輪を嵌め終えた甲冑は、リラの背中を強く押してから鉄格子の奥の暗闇へと消えていく。リラはその勢いによろめきながら、二、三歩前へと歩み出た。


 それから少し先の地面を見て何かに気づいたのか、リラはまた数歩前へと進んでしゃがみ込む。

 そうして拾い上げたものは、私の目にもはっきりと映った。拳銃だ。

 それと同時に、錆びた鉄が軋み、擦れるような不快な異音が辺りに響き渡る。

 音の出所を探って、上を見上げた。見れば、天井に空いた穴へと伸びる鎖がゆっくり、ゆっくりと飲み込まれていっている。

 緩慢な動きではあるが、無視は出来ない。その鎖は私に、そしてリラに、それぞれ繋がっているのだから。

 手にした銃で鎖を打ち抜こうかと思考して、すぐにやめた。古びているとはいえ、一発だけで鎖が砕ける保証も無いし、仮にこの鎖から抜け出せたとして、それが何の解決にもならないことは分かりきっていた。

 そこまで巡らせて、諦めの結論を出す。

 結局のところ、どう足掻くことも出来ぬまま、いつも通りの顛末を迎える以外にはないのだろう。

 殺さなければ、殺される。ここはそういう場所だ。


 リラも私と同じく、その結論に至ったことだろう。不安げに私の方を眺める表情は、けれどもどういった感情によって作られたものなのかは窺えない。

 柔らかく伸びる真白い髪と、溶け込むようなはっきりとした色合いの、金色の瞳を持つ少女を見つめる。

 思えばずっと、薄暗い牢の中でしか彼女の姿を見たことはなかった。松明の並べられたこの明るい広場にあって、リラの色は見慣れたそれ以上に映えて見えた。

 お互いに動くことのないまま、どれほどの時間が経ったか。

 そう長い時間ではなかっただろう。地面を這う鎖の不快な音は、未だ鳴り続けている。

 その音に促されるように、私はゆっくり、ゆっくりと拳銃を手にした腕を上げていく。

 リラとの距離は、私の足でも二十歩にも満たない。そんな距離であれば、目を瞑っていたとしても外しはしないだろう。

 私の腕が動き出すのを見ても、リラの表情は変わらない。身を動かすこともなく、ただじっと私を見つめている。

 それでも関係ない。動かないのであれば、万に一つの外すという可能性も消えるだけのこと。

 殺さなければ殺される。死ぬのは御免だ。

 こんなものは、いつもの魔獣相手よりもずっと簡単だ。ただ銃口を合わせて引き金を引く。それだけのことに考えを挟む余地も、行動を鈍らせる要因もあるはずがない。

 そんな、簡単なことのはずなのに。


 伸びかけていた腕が止まる。

 後たったの数センチ。それだけ腕を上にすれば、リラを銃口が捉えるというのに。

 どうしても、私の腕はそれ以上には上がってくれなかった。

 小さく息を吐く。呼吸が苦しい。その息苦しさから逃れようとすると、連動するように腕がするすると下がっていった。

 だらりと腕を下げ、銃口が地面を向くと、呼吸も楽になる。

 ああ、全く。何という不条理だろう。

 死ぬのは、御免だ。

 けれどリラを殺すなど、同じくらいに御免だった。

 その二つを天秤に掛けろというのならば。どちらかしか選べないというのなら、私は。

 地面を這う鎖の音が消えた。鎖が宙に浮き始めたのだ。後は天井の穴へと鎖を巻き取る、軋んだ音が響くばかり。

 不快な音が減ったおかげか、気分はすっかり晴れてしまった。

 私は、拳銃を持ったその腕を、力の限り横へと振るった。


「ぇ……!?」


 リラの驚いた声が、こちらまで漏れ聞こえた。

 文字通りに私の手を離れた拳銃は、二、三度跳ねた後に少しだけ地面を滑って止まる。

 首輪に繋がる鎖が、宙に浮くまでに短くなった今では、もはやそれを取りに行くことは叶うまい。

 何が正しいのかなど、私には分からない。けれど、全てが歪んだこの場所で見た、本当に綺麗なものを壊してしまうことだけは、絶対に間違いだと思った。

 ただ、それだけだ。

 リラは、目をまん丸く見開いたまま。こちらを見ていた。そんな表情も出来るのだなと、私はその姿を目に焼き付けつつ思った。

 それからリラは、目を逸らすように顔を俯かせる。牢の中で視線が合ってしまった時に、リラがいつもする仕草だ。

 一瞬だけ俯くように視線をそらして、それからすぐに戻して。


「────ありがとう」


 そうして浮かべた笑顔は、それだけはいつもと違って、晴れやかな満面の笑顔だった。

 拳銃を手にしたリラの腕が、するすると上がっていく。迷いなく上っていった銃口が、リラ自身のこめかみに押し付けられる。

 息を呑む音は、果たして誰が発したものだったか。

 銃声が、広場に響き渡る。その音は嫌に耳に残った。


 かちゃり、と拳銃が地面にぶつかり音を立てる。糸の切れた人形のようにリラの身体が崩れ、倒れ込む手前で首輪に繋がれた鎖によって支えられる。

 俯くように項垂れる顔に真白い髪がかかり、けれどその隙間から赤い液体が絹糸を染め上げるように染み出し、地面に赤い水たまりを作っていく。

 鎖の音が消える。巻き取られていたはずの鎖の動きが止まったのだ。

 もう、動くものは何もない。私だけが残った。

 私は、そうして生き残った。

 そうして、リラは死んだ。

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