月明かりの滴
「憧れってさ、自分が自分から離れて遠くへ行ってる状態なんだって」
いつだったか、TVに映る話題の俳優を見ながら、彼は呟くように言った。
「…夢見てるだけってこと?」
「さあ?よくわかんない」
どっかの偉い人の言葉なんじゃない?と雑に会話を終える。
「そう」
たった一言、話の前後も覚えていない言葉にこんなに振り回されるなんて。
目から零れる雫を手の甲で拭う。
懐かしい夢を見た。
木枯らしが落ち葉とともに冬の気配を運んでくる。
「寒…」
25歳の山下清穂は待ち合わせの店へ向かい歩いている。
目についた時計を見ると、午後7時半を10分ほど過ぎている。
冷えて赤くなった手をこすり合わせる。
少しだけ、歩みをゆっくりにする。
しかしすぐに、軽く首を振り目的地へ向かって歩き出す。
「いらっしゃいませ」
少しお洒落な店内に緊張しながら足を踏み入れると、白いシャツを着た男性店員に迎えられた。
「あの、待ち合わせで…」
「ご予約ですか?」
「あ、はい」
会話していると知っている声に名前を呼ばれる。
「清穂ー!」
声の方をむくと亜美が席を囲む衝立から顔をのぞかせていた。
店員へ一緒だと伝え、亜美の元へ歩く。
「久しぶりだね」
テーブルにはすでに3人座っていた。
「遅いよー」
「仕事なんだから仕方ないよ」
口を尖らせる亜美を、やんわりとたしなめる由美子。
「何飲む?」
早紀はメニューを差し出してくれる。
「ああ…えっと」
ちらりと由美子の方を見る。
視線に気づいた由美子がひらひらと手を振る。
「私のことは気にしないで」
「…んー、ウーロン茶で」
「え、飲まないの?」
「うん。今日は回りそうだから」
これは、どちらかというと自分の為。
「かんぱーい」
カツン、とグラスのぶつかる音が響く。
「本当ひさしぶりー」
「前にあったのが…亜美の結婚式だもんね」
話す亜美と由美子の左手にはキラリと指輪が輝いている。
「時間は早いよー。だってもう由美子はお母さんだよ?」
「あはは。実感はないけどね」
そう話す由美子は、自らのおなかを触りながら愛おしそうに見つめている。
「おめでとう」
「うん、ありがとう」
少し照れた様子で笑う由美子は結婚式とはまた違った美しさを醸し出している。
「早紀は?仕事も忙しそうだけど、結婚もそろそろ?」
「んー、どうかな。そろそろ記念日ではあるけど」
「え!じゃあタイミング的にはやっぱり」
身を乗り出すようにして亜美が尋ねる。
「でも長く一緒にいるからなあ。わかんないや」
早紀の返答に明らかに残念そうな表情の亜美。
「清穂は?最近どんな感じ?」
わくわくと期待に満ちた亜美の視線。
…きた。
笑顔のまま固まってしまう。
「…全然。この間も別れたばっかり」
「そっかー。清穂、続いてるイメージないもんなあ。なんでだろ」
「あはは。性格じゃない?もう、こんな暗い話やめやめ!由美子、赤ちゃんの名前とか考えたの?」
悟られないように、気づかれないように、笑顔のまま話題を逸らす。
理由はちゃんと、自分ではわかってるつもり。
「んーと、いくつかはね」
「おお!例えば?」
「”かえで”とか”ゆうき”とか。男の子でも女の子でも使える名前にしたくて」
”ゆうき”の音を聞いた瞬間、頭をよぎる姿。
一瞬俯くが、何事もなかったかのように会話に加わる。
ああ、お酒にしなくて正解だった。
マンションに帰り、玄関の鍵を開ける。
吐いていたヒールを放るように履き捨て、暗い室内へと向かう。
カーテンを開けっぱなしだったせいで、月明かりで部屋が照らされている。
電気も付けず、ソファに沈み込む。
「悠貴兄ぃ、かあ」
名前を聞いて思い浮かぶその人は、清穂の幼馴染である。
幼馴染といっても歳は6つも上。
親同士の仲が良く、しょっちゅう我が家に入り浸っていた。
清穂より先に家を出た悠貴は、帰省の度に我が家にも顔を出していた。
けれど清穂も家を出た今、タイミングが合わないのかもう何年も会っていない。
母たちから”元気そう”という情報を聞くだけだ。
月明りで照らされた床をぼーっと見つめる。
「何してんだろ」
思わず呆れたように笑うと目頭が熱くなるのを感じた。
肌寒さに身震いする。
部屋に差し込む光が月明りが太陽に代わっている。
「やば…」
帰宅したそのままの状態でソファに寝転んでいる清穂。
化粧も落とさず、服も皺だらけ。
昨日、あのあと寝落ちてしまったらしい。
今日が休みで本当に良かった。
コーヒーでも飲んでお風呂に入ろう。
冷えた身体をさすりながら顔を洗う。
コーヒーを手に部屋へ戻るとスマホの通知に気付く。
昨日の3人かな。
画面を開くと目に飛び込んでくる予想外の名前。
”中井悠貴”?
「え?」
急に胸がざわざわと鳴る。
見間違いかもしれない。そう思って目をこすり、再度画面を見る。
表示された名前は変わらない。
手にしたコーヒーが少し波打っている。
この名前の人物を、私はたった一人しか知らない。
「着信…なんで」
日付を回った深夜の着信に、ただただ疑問が浮かぶ。
どうしよう。折り返し。
発信ボタンを押そうとして指を止める。
とりあえず一回落ち着こう。
…あと声がもうちょっと出るようになってから。
コーヒーを飲み、少し時間が経つ。
着信画面がずっと頭から離れない。
そうだ、お風呂に入ってからにしよう。
買い物してから、ご飯食べてから。
頭の片隅を離れない履歴をまっすぐ見られなくて、ずるずると後へ回し続けた結果外はもう日が沈み始めていた。
気を紛らわせようとTVをつけると、有名な俳優が映る。
「この人、あの時の人か」
昔、悠貴と一緒に眺めた時と比べて、当然だが歳をとっている。
それだけ年月が経ったのか。
しみじみと考える一方で、あの頃の悠貴が浮かぶ。
「…お互いに大人になってるよね」
呟いた言葉は空気へと溶けていく。
時計を見ると、23時近くを指している。
スマホを手に取り、少しだけ強く握りしめる。
清穂は立ち上がり、深く息をつく。
はやる鼓動を抑えながら、発信ボタンを押した。
機械的なコール音が鳴る。
声だけになるのが怖くて、つけたままにしたはずのTVの音声が耳に届かない。
やけに長い時間、固まっている気がする。
プツ、と電話が繋がる音がした。
「…清穂?」
よう、と馴染みのある少し低い声が耳に流れ込んでくる。
心臓が大きく跳ねる。
「あ…と、久しぶり」
声が上ずり、うまく話せない。
「久しぶり。元気してるか?」
「うん。そっちこそ。電話、どうしたの?」
緊張が伝わらないように、平常心を装いながら尋ねる。
「ああ、元気元気。昨日のやつな」
「そうそう。ごめん寝てて」
懐かしい声、ゆったりとした喋り方。
記憶とは変わらないと思ったけれど、少しだけ声が掠れている。
「いや、こっちこそ。遅い時間に悪かったな。…今、東京だっけ?」
「うん。話したっけ?てか、悠貴兄ぃは今どこで何してるの?」
「おばさんからな。俺は関西を転々としてるよ」
「へえ、忙しそう」
「まあな。でさ、今度の出張が東京なんだわ。飯行かねーかなと思って」
「へ」
少しだけ大人しくなっていた心臓が再び脈打ち始める。
顔まで熱くなってきた。
「い、いいけど。いつ?」
「今週の…んーと」
電話越しに紙をめくる音がする。
「金曜だな。どう?」
「金曜ね。うん、大丈夫。」
スケジュール帳も開かず即答する。
「場所は?」
「任せるわ。あーあと、もう一個あってさ」
「ん、なに?」
思わず食い気味に尋ね、恥ずかしくなって誰もいない宙に視線を逸らす。
「俺さ、結婚する」
「…え」
言葉が理解できず、聞こえた単語をそのまま繰り返す。
「ケッコン?」
「うん、結婚。だから今度会うとき招待状渡そうと思って」
「そう…そっか」
頭が真っ白になり、呆然と立ち尽くす。
「…祝ってくれねーの?」
少し不満げな声が電話越しに聞こえる。
「あ、ごめん。…おめでとう」
「おう」
耳に届く声が満足げにかわる。
「じゃ、とりあえず用件はそれだけだから。金曜の店だけ頼むわ」
「うん、わかった」
「朝弱いんだから早く寝ろよー」
じゃあ、と言い残しプツリと切れる通話。
ツー、ツーとどこにも繋がらない電話が泣いている。
その場にすとん、と座り込む清穂。
TVの音声が妙に騒がしく聞こえる。
「結婚」
ぽつんと呟く単語。
パッと脳内に浮かんだのは、昨日の友人達の指に光る指輪だった。
金曜日、いつもより少しだけ早起きした。
丁寧に髪を巻き、念入りにメイクをする。
少しだけ、大人びた服を着て家を出た。
仕事に向かいながら、あの後悠貴とやり取りした履歴を眺める。
"金曜、8時"
店は先日のあの店を指定した。
気は重いのに、少しだけ浮かれてもいる。
そんな自分に、なんとも言えない心地悪さを覚える。
仕事はいつも通りこなした、つもりだ。
ほんの少しだけ上の空だったのは否めない。
何を話そう。
結婚。
見た目どのくらい変わってるだろう。
今日の私、変じゃないかな。
ねえ、いったいどんな人を愛したの?
あらゆる疑問と不安で腹の奥がぐしゃあ、と潰れそうになる。
秒針のない時計の進みは遅すぎて、何度確認したか分からない。
腕時計が午後7時40分頃を指している。
少し早く着いてしまった。
店の近くで時間を潰そうかと迷っていると、冷たい風が髪を撫でる。
「…先、入って待たせてもらおう」
入口のドアを開けると暖かい空気が流れ出る。
思わず目を細める清穂。
「いらっしゃいませ」
先日と同じ店員が出迎えてくれる。
「あの、8時に予約した山下です」
「山下様、お待ちしておりました。お連れ様がお待ちですよ」
「え」
微笑む店員の言葉に驚く。
「…すみません、早くなってしまって」
「いえ、大丈夫ですよ」
こちらです、と歩く店員の後を付いて進む。
心の準備をする間もなく、目の前に悠貴が現れた。
「よ」
こちらに気づいた悠貴が軽く手を上げる。
少しくたびれたスーツに身を包んだ悠貴は少しだけ大人びているが記憶とあまり大差はない。
急に現れたからか、心臓は一度跳ねるだけで収まった。
「久しぶり」
向かい合うように席につく清穂。
「何飲む?」
一つのメニューを一緒に覗き込む。
距離の近さが少しだけ気恥ずかしくて、清穂はすぐに顔を上げた。
「生」
「お、飲めるのか。そうだな、俺はジンジャーエールかな」
「飲まないの?」
「…弱いんだよ」
照れくさそうに目を背ける悠貴に笑ってしまう。
「なんか納得」
「うるせーなぁ」
「お待たせいたしました」
ドリンクとお通しが来る。
手に持ったジンジャーエールのグラスを悠貴がこちらへ突きだす。
「ん」
口を緩めて、自分の手にしたグラスで突き返す。
「ん」
コツン、とグラスのぶつかる高い音。
グラスの水滴がテーブルへ跳ねていく。
二人して無言でグラスに口をつけた。
意外にも、数年会っていないとは思えないほど会話は弾んでいた。
どちらから切り出すか、お互いに伺っていたのかもしれない。
先に切り出したのは清穂だった。
「…結婚おめでとう」
「おう」
ほんの少しだけ、声が揺れた。
気づかれてはいない、と思う。
「どんな人なの?」
「んー、そうだな。見てて飽きない感じ」
「へえ」
「くるくる表情が変わるんだよ。面白い」
その人を思い浮かべているんだろう、少し目を細めながら悠貴が答える。
「今日はいいの?私と会ってて」
「ああ。ちゃんと話してるから。相手が清穂だってことも言ってる」
「私のこと知ってるの?」
目をパチパチしながら尋ねる。
「うん。ずっと一緒にいた大事な子だって話したよ」
言葉を理解し、顔に熱が集まるのを感じる。
だめだ、とテーブルの下で自分の手を強く握る。
「彼女さん、何か言ってた?」
思わず意地の悪い質問をしてしまう。
声に出した後で、自分に嫌気がさす。
「…本当はさ、電話でいいかと思ってたんだよ」
小さな声で話す悠貴の顔を見る。
悠貴は思い出すように視線を彷徨わせ、不意にふは、と笑う。
「結婚の報告な。でも相手が、あ。凛って名前なんだけど。」
そこで言葉を切る悠貴。
「凛が、"そんなに大事な子ならちゃんと会って話しなさい"って。そう、言ったんだよ」
続ける悠貴。
「正直、何年も会ってなかったからどこかで避けてたんだよな。清穂に会うことも。でも、凛に言われて確かに、って思った。だから連絡をしてみました」
「そっか」
柔らかく笑う悠貴。
「…幸せなんだね」
「あー、そうかも」
目と鼻に熱が集まるのを感じる。
気づかれないようにと願いながら、グラスに入ったぬるいビールを流し込んだ。
「お前、酒強いのか」
悠貴は呆れたように消えていくグラスの中身を眺めている。
「知らなかったでしょ」
からっと笑いながら答えた。
「ありがとうございました」
店員に見送られながら店を出る。
来たときよりも気温は低いはずなのに、なぜだか風が心地よい。
「お前飲み過ぎだわ」
「まだ飲めるよ?」
「やめとけ」
苦笑しながら、一歩先を歩く悠貴。
広い背中から足元へ視線を落とす。
これといった会話もなく歩いていると、ふと明るい光が目に入る。
顔をあげると、コンビニの強い照明だった。
「なあ、ちょっと寄っていいか?」
声の主は、既にコンビニの入り口に向かって歩き始めている。
「うん。私は外で待ってるね」
おう、とひとり照明に吸い込まれるように店内に入る悠貴を、ガードレールに寄りかかって待つ。
今日は雲に隠れて月が見えない。
月明かりのない夜は、もの寂しい闇である。
じっと空を眺めていると、足早に悠貴が戻ってきた。
「早いね」
「そうか?」
ん、と買ったばかりのコンビニの袋を清穂へ渡す悠貴。
思わず受け取り、中を覗くといちご味のアイスが数種類入っている。
「え、なに?」
「好きだったなと思って」
「くれるの?」
「ああ」
清穂の隣へ、少し間を開けてもたれかかる悠貴。
「…ありがと」
冷たい風が、微妙に開いた二人の間を抜ける。
「ねえ、今度彼女さん紹介してね」
「ああ」
「ちゃんと、参列するから」
「ああ」
唇をかみしめ、俯く清穂。
握りしめた袋がガサっと鳴る。
「悠貴兄ぃ、幸せになってね」
「…お前もな」
俯く清穂の頭へ手をのばす悠貴。
触れる直前、一瞬手を止めるがそのまま頭をひと撫でする。
触れた懐かしい感覚を唇を噛み締め受け止める。
清穂は一度目を閉じ、深く深呼吸をする。
息を整え、勢いよく立ち上がる。
「わたし、行くね」
真っ直ぐ悠貴の目を見つめる。
悠貴は一瞬ぽかんと口を開け、急に笑い始めた。
「え、怖いんだけど」
「悪い悪い」
手をひらひらと振りながら謝る悠貴。
「じゃあまた、な」
真っ直ぐ清穂を見つめ返す悠貴。
「うん、またね」
ゆっくりと告げると、清穂は悠貴に背を向け歩き出す。
清穂の後ろ姿を眺める悠貴。
悠貴がぼーっと見ていた背中が、突然止まる。
少し驚いて見ていると、清穂はくるりと悠貴を振り返る。
大きく息を吸い込む清穂。
「あのさ!1個教えといたげる!」
予想以上の大声に呆気にとられる悠貴。
「いちご味が好きだったのは小学生の頃ー!今はバニラのほうが好き!」
ニカッと笑う清穂に頭をかく悠貴。
「次はバニラにしてよね!!」
笑う清穂に手を上げ答える悠貴。
その様子に満足した清穂は、何も聞かず再び背を向けて歩き出す。
悠貴の視線が背中に刺さっている気がしていた。
通りを逸れ、角を曲がる。
進む度、だんだんと小さくなる歩幅。
ついに道の途中、立ち止まった。
「…ふう」
やっと、息ができる。
冷えて澄んだ空気が肺へと届く。
火照っていた頭の中まで、澄んだ空気がクリアにしてくれるみたいだ。
清穂は悠貴との会話を思い出す。
凛さん。名前を聞いて、話を聞いて、なぜだろう。
何かがすとんと腑に落ちる気がした。
手に握ったコンビニの袋を見つめる。
きっともう、思い出なんだ。
彼にとっての私も、私にとっての彼も。
闇をつくっていた雲が、少しずつ月明りを通し始める。
自分から遠い所へ行ってしまってる状態が憧れだって言っていた。
それなら自分の中に自分が見えている今、私はちゃんと此処にいるってことなんだろうか。
頭では納得してしまっているから、胸は苦しいのに不思議と涙は出ない。
思い切り上を向いて、柔らかな月明りを見上げる。
今のこの感情に名前を付けるなら、たぶん”祈り”が一番近いのだろう。
どうか彼と彼の愛する人が幸せでありますように。
どうか彼からもらったこの感情を私自身で愛せますように。
どうか、明日の私が笑っていられますように。
月に照らされた滴が手にした袋を濡らす。
いつの間にか雲は流れ、月は優しく道を照らしていた。
なぜか心に棲みついてる言葉って、案外好きだったりします。




