4:獣の森
魔物は、普段は自分のテリトリー内でしか活動しない。だが彼らも生き物、時には予測不能の行動をし、他の魔物のテリトリーを奪おうとする。もしもそんな獰猛な魔物と、今のイツ達が出会ってしまえば、この森から生還することは非常に難しいであろう。
「コージス、この葉を持っておけ。出来るだけ多く」
「な、なんだよこれ?」
森の中を慎重に歩いている最中、イツは一度立ち止まってある植物から葉っぱをちぎり、それをコージスに手渡した。網状の独特な形をした葉っぱ。不思議なことにその葉は植物独特の緑臭さがなく、むしろ清涼感があった。
「〈匂い消しの葉〉だ。身体に付けておけば魔物はこちらの匂いを嗅げなくなる。奴らはあらゆる情報から敵の居場所を探るから、痕跡を残さないようにしろ」
注意を促しながらイツがそう言うと、コージスは顔を青ざめながら言われた通り葉を手にした。そして何枚かの葉を服のポケットなどに入れておき、出来るだけ匂いがなくなるようにする。イツも何枚かその葉を手に取って行く。
「……お前、何でそんな森に詳しいんだ? イウェンから教わったのか?」
ふとコージスは気になったようにそう尋ねた。
純粋な疑問である。普通子供ならこんなことは知らない。ましてや森の中ですべき行動など、狩人の子供でもない限り教わらないことだ。コージスはそれが気になったのである。
「否、以前村に訪れた旅人から聞いた」
周囲を警戒して慎重に歩きながらイツはそう答える。だがそれは嘘であった。
確かにカルの村に旅人が訪れたことは何度かあったが、その時に彼らから匂い消しの葉など教わっていない。これは前世でイツが冒険者時代に学んでいたことだ。だがそれを説明する訳にもいかない為、矛盾のないよう話をでっち上げたのである。
「そ、そうか」
「…………」
コージスもその言葉を疑うことなく、素直に頷くとそれ以上聞いてくることはなかった。その間にイツは慎重に前へと進んでいく。足跡を残さないようコージスに指示しながら、出来るだけ明るい方へと移動した。
現在、イツには目的が二つある。一つはこのまま森の外に近づくこと。話では既に大人達がコージスを探し回っていると言う。ならばその大人達と合流してしまえば、安全は保障されたに等しい。
そしてもう一つは、いかに安全を確保しつつ、魔物に出会わないか。いくら前世は〈鬼刃〉だったとはいえ、今のイツは子供。もしも上級魔物と出会ってしまえばひとたまりもない。コージスを守ることは叶わず、自分も倒されてしまうだろう。その最悪の未来だけは避けなくてはならなかった。
「……ところで、コージスは何故森に入った?」
「え?」
ふと、イツは前を向いたままそう尋ねた。
村の男からの話でコージスが森に入った理由は聞いていたが、彼の口から直接聞きたかったのだ。
「う、うるせぇ、お前には関係ないだろ!」
「……そうか」
「…………」
当然コージスが素直に教えるはずもなく、彼は顔を背けてしまう。イツもこれ以上聞き出す手段がない為、早々に諦めてしまう。すると、コージスは全然問いただそうとしないイツを見てため息を付き、仕方なく口を開いた。
「証明したかったんだよ。俺だって強いってことを……」
それは確かに村の男が言っていた理由と同じものであった。そこでイツは初めてコージスの方に顔を向け、蒼い瞳でじっと彼のことを見つめた。
「証明は出来てるはずだ。コージスは村の男の子の中で一番強い」
「男の子の中では、だろ……村の子供の中では、二番だ」
イツが事実を述べると、コージスは不満そうな声色で首を振った。
そう、男の子の中ではコージスは一番強い。その実力は取り巻きが居る時点で分かる通り、彼はリーダーにふさわしい力が備わっているのだ。それは周りも理解している。だが彼はそれでは満足出来ないらしい。
「一番じゃなきゃ意味がないんだよ。二番なんて誰も見ない。興味を持たない。絶対に負けない奴しか、皆は好きじゃないんだよ……!」
コージスは拳を握り締め、肩を震わせながらそう本音を叫んだ。
子供にとって一番というものは何よりも重要なもの。まだ世界を知らないからこそ、自分達の中での一番に執着する。だが前世の記憶があるイツにとっては、それに同意することは出来なかった。
(ふむ……難しいものだな。子供心というものは)
イツは困ったように顎に手を置き、しばらく考える。
イツにとってコージスは同年代の子供であり、大切な友達と思っている。前世でも学んだように仲間との絆は貴重な宝となる。だからこそ、ここで悩んでいるコージスに何か助けになる言葉を投げかけようと口を開く。
「一番に執着し過ぎるのは良くないことだ。上を見すぎるせいで、大事なことを見落とすことになる。それは其方自身も分かっているだろう?」
「…………」
「それに、皆好きじゃないなんてことはない。少なくとも、私はコージスのことを好いているぞ」
「はぁ!?」
励ますつもりでそう言うと、何故かコージスは驚いたように声を上げる。そしてブンブンと手を振り、人差し指をイツに向けてきた。
「う、うるせぇし。お前から好かれても、全然嬉しくないし……!」
「む、そうか」
どうやらあまり励ましにはならなかったようだが、それでも元気にはなってくれた。それだけでイツは満足であった。何となくコージスの耳が赤くなっているように見えたが、彼女はそんなこと気にせず顔を前に向けた。
「さぁ、進もう。森から脱出しなくては」
「ああ、分かってるよ……」
再び二人は森の中を歩き始める。それからしばらく進んだが、幸い魔物と出会うことはなかった。イツが出来るだけ安全なルートを選んでいる為、何事もなく進むことが出来たのだ。だが、そこで運は途切れてしまうこととなる。
「……不味い、沼だ」
「え、何だよ? 沼? それがどうかしたか?」
二人の前に現れた沼。それはそれ程大きい沼という訳でもなく、至って普通の沼のようにも思える。実際コージスはそれを見てもただの沼にしか見えず、何故イツが驚いているのかと疑問に思っていた。だがこの獣の森の中にある沼の意味を知っている彼女にとって、この遭遇は歓迎出来ないものなのだ。
(前はここに沼などなかった……ということは……)
イツは以前もこの森に来たことがある。というよりも何度も訪れている。鍛錬の為に、時折魔物と戦っているのだ。だが前に来たときはこの場所は普通の道であったはずだった。それが今はなく、代わりに沼が出来ている。それはすなわち、〈奴〉が活動範囲を広げたことを意味する。
「急ぐぞコージス。走れ」
「え、良いのかよ? 音出したら不味いってお前……」
「良いから、走れ」
こうなった以上出来るだけ沼から距離を取らなければならない。まだ森の外の方向がどちらか判明していないが、それよりも最優先なのはこの場から離れることであった。
イツはコージスの手を引いてすぐさま走り出す。あまりの速さにコージスが転ばないように手を引っ張って体勢を立て直させながら、出来るだけ遠くへと移動する。
「お、おいイツ! どういうことなんだよ!?」
「…………」
イツはコージスの問いかけに答えず、ひたすら走り続ける。狭い木々の間を抜け、岩を飛び越え、遠く遠くへと距離を取る。だが開けた場所に出た瞬間、イツは思わず立ち止まってしまった。
「----なっ」
目の前の光景が信じられず、彼女は言葉を失ってしまう。そこには、先ほどのものとは違う沼があったのだ。それも、かなり大きい沼が。
「えっ、また沼かよ。しかもでかっ」
イツは自分の不甲斐なさを呪う。よりにもよって敵のテリトリーに入ってしまった。警戒を怠り、新しく沼が出来ている可能性を考慮出来なかった。そのせいで、コージスを危険に晒すこととなってしまったのだ。
すると彼女達の背後から、何かが近づいて来た。それは異様な気配を放ち、イツは反射的にコージスの服を引っ張り、移動させる。
「シュルルルルルルゥ……」
「下がれ! コージス!」
「うぇっ!?」
コージスを後ろに下げると同時に先程まで彼が立っていた場所に何者かが現れる。それは一言で言ってしまえば巨大な蛇であった。だがその身体は泥で覆われており、時折泥の一部が地面に滴り落ちている。更に蛇の鋭い瞳は赤く輝いており、それに睨まれただけで身体が固まってしまうような錯覚に襲われてしまった。
「お、おい……この魔物って、もしかして……」
「ああ……」
コージスは恐怖で声を震わせる。子供のコージスでも分かるくらい、その魔物は恐怖の対象だった。何故ならば、目の前に居る魔物は村でもよく獣の森の怖さを子供に教える為に話に出てくる魔物と同じ見た目をしているから。
「〈沼蛇〉だ」
〈沼蛇〉。〈獣の森〉に生息する上級の魔物であり、その危険度は熟練の冒険者でも相手にすれば苦戦する程高い。
最大の特徴は沼を棲家とし、自身で沼を作っては活動範囲を広げていく習性を持っていること。森の中で複数の沼を見かけた場合、そこには沼蛇が居る可能性が高いとして冒険者の間でも危険視されている。
(不覚……まさかこいつのテリトリーに入ってしまうとは。それとも、誘導されたか?)
本来イツは他者の気配に敏感であり、魔物の気配を感じ取ることも出来る。だからこそ一人で森に入った時も、不必要な戦闘は避け、目的だけ達成したら無事に出ることが出来たのだ。だが今回、それがうまくいかなかった。魔物の居ないルートを通っていると思ったが、それは沼へと続く最悪の道だったのだ。中々魔物に遭遇しなかったのも、沼蛇の存在があったからかもしれない。
「シュルゥァァアアアア!!」
「何にせよ、やるしかないか……私の後ろに居ろ。コージス」
「え、ぁ、分かった……」
沼蛇は赤い瞳を光らせ、威嚇のポーズを取る。完全に二人のことを獲物と見なしていた。こうなっては逃げることは困難。イツは覚悟を決め、短剣と木の棒を構えた。身体中の全神経を集中させ、沼蛇と対峙する。
次の瞬間、沼蛇は身体を大きくうねらせて凄まじい勢いでイツへと顔を伸ばしてきた。避けるほど口が開かれ、鋭い牙がイツへと襲う。
「シャアアアアアアアアアアアア!!」
「----無国刀流、〈双綾の一閃〉」
その口目掛けてイツは短剣と木の棒を振るい、鋭い一撃を放つ。だがその殺気を感じ取ったのか、突きが当たる直前に沼蛇は身体を捻じ曲げて方向を変えた。短剣から放たれた突きの衝撃は僅かに沼蛇の身体に傷を付けただけで、不発に終わってしまう。
(む……やはりこんな得物では、突き技は半減されてしまうな)
イツは自身が放った技が消えてしまったのを見て目を細める。
本来彼女が使う無国刀流は刀で技を放つもの。せめて剣か、刀と同じくらい斬れ味のある物でなくては全力の技を放つことは出来ない。
(おまけに、泥が付着した……これでは使い物にならん)
再び牙を向けてきた沼蛇の攻撃を回避しながらイツは短剣に目を向ける。その剣身には沼蛇に触れた際の泥が付いており、振るっても簡単には落ちなかった。これが沼蛇の厄介なところ。沼蛇の身体は何層もの泥に覆われており、外側は柔らかい泥、内側は長い年月によって固くなった泥が集まっている。この層によって冒険者は剣で沼蛇を攻撃しても、奴の身体を斬り裂くことは出来ず、泥によって剣の斬れ味が落ちてしまうのである。
「猪口才な」
「シィィィアアア!」
忌々しそうに沼蛇のことを睨み付け、イツは短剣と木の棒を入れ替えて構える。短剣が使い物にならなくなった以上、こちらがメインで戦うしかない。だが当然、こんな木の棒で蛇の身体を斬り裂けるはずがなかった。
(奴の泥を斬り裂くには〈連刃〉を使うしかない。だがその為には刀が二本必要だ……やはり、逃げるしかないか?)
沼蛇の攻撃を回避し続けながらイツは冷静に状況を分析する。
破壊力に特化したあの技なら、硬い鎧となっているあの泥を突破する事が出来るかも知れない。だがその破壊力を再現するには、今のイツには丈夫な刀が二本必要なのである。そうでなければ〈技〉を出すことが出来ない。
今イツの手元にあるのは使い物にならなくなった短剣と、今にも折れそうな木の棒の二本の武器だけ。あまりにも頼りない得物達であった。思わず彼女はクスリと笑みを零してしまう。
(この状況、邪竜の時のことを思い出すな……)
不意にイツは前世の自身が死ぬ時の光景と今の光景が重なる。
敵は厄介な特徴を持ち、一筋縄ではいかない。更にこちらには守るべき存在があり、一人で戦わなくてはならない。端的に言ってピンチというやつだ。だが彼女は不思議と、危機感を抱いていなかった。
(だがもう、死ぬつもりはない。私はこの人生を、精一杯生きると決めているのだ)
イツの瞳は静かに燃えている。まだ彼女は諦めていない。
前世ではもはや選択肢が残されていない状況だったが、今は違う。必ず何か突破口があるはず。考え、実行すれば、絶対に二人とも生還出来る。イツにはその自信があった。そしてその思いが神に通じたのか、イツ達に幸運が舞い降りる。
「うおぉぉわぁぁぁ! 君達! 退いてくれぇぇ!!」
「……!!」
突如木々の間から馬車が飛び出してきた。その馬車は沼蛇に激突し、荷台がひっくり返って荷物が散らばってしまう。乗っていた騎士らしき格好をした男も倒れ込み、痛そうに腰を抑えていた。
「な、なんだ? 旅商人か?」
「くっ、すまない……途中で魔物に追いかけられてしまって」
恐らくは荷物を運んでいる途中だったのだろう。この森は時折商人や旅人が通ることもある。安全な道を選んだり、冒険者などを雇えば魔物の脅威が少ない為、使われる頻度は多いのだ。だがどうやら、この騎士はそううまくいかなかったらしい。よく見ると馬車はボロボロになっており、魔物に襲われた形跡がある。荷物であろう武器も落ちてしまっていった。
「しめた……!」
「お、おい。イツ!?」
それを見た瞬間、イツは駆け出して馬車の近くに落ちていた武器を拾い上げる。それは、今のイツが何よりも欲していた武器。黒々と輝く、二本の刀であった。
「借りるぞ。この刀」
「えっ……へ?」
倒れている騎士は何が起こったのか分からず、目をぱちくりとさせている。その間に馬車で吹き飛ばされていた沼蛇は起き上がり、怒りで瞳を真っ赤に輝かせていた。口を大きく開き、長い舌を伸ばしてイツのことを睨み付ける。
「シュルルァアアアアアアアアア!!!」
「待たせたな。これでようやくまともに戦える」
イツは二本の刀を振るい、手に馴染ませる。その刀は子供のイツでも持てる程軽く、よく手に馴染んだ。その感触を確かめながら彼女は満足の笑みを浮かべる。そして刀を構え、沼蛇と改めて対峙する。
「我が名はイツ……我が刃は悪を討ち、邪を滅する。我が刃に一点の曇りもなし……いざ尋常に、勝負!!」
正々堂々名乗りを上げ、イツは走り出した。同時に沼蛇も動き出し、身体を伸ばしてイツを囲み、閉じ込めて一気に喰らい付こうとする。だがイツは身体を捻ると、二本の刀を広げて思いきり振り抜いた。
「無国刀流、〈連刃一刀〉!!」
「シァ……ッ!?」
刀が沼蛇の身体に直撃すると同時に、三つの斬撃が沼蛇を襲う。その身体に付着していた泥の鎧はあっという間に斬り裂かれてしまい、沼蛇は頭部を切断され、絶命する。そしてイツは静か過ぎる程優雅に地面に着地しゆっくりと深呼吸する。そして敵が沈黙したことを確認すると、刀を振り払い、鞘へと収めた。その姿は少女とは思えない程様になっており、コージスと騎士は呆然と見つめていることしか出来なかった。