お忘れとは御挨拶に御座いますな、郭价に御座る
「どれ、可馨此方に来い」
そう言って京馨は小馨を抱き上げた。
「母上、私はそれほど幼くは有りません」
そうは言うが、可馨は嬉しそうである。
「よいではないか、思えば可馨を抱き上げるなど、赤子の時以来だ。よくぞ我が手に戻ってくれた」
互いに小声で話す。対外的には可馨は既に故人である。
「開門、御当主様がお出でになる」
宝剣を捧持した王慶が先触れする。流石に用人までは参じていない。
門外には高弟一同揃い、拱手方膝着礼で迎える。遨大通りに向けて各門下が並び高弟に習う。
京馨は小馨を下ろし、拱手立礼で応じた。黄に手引かれて、小馨は下がる。
ザッと云う音と共に門下一同が終礼する。
大隊指揮者だろう。高位官使が京馨に近づくが、京馨はそれを片手で制した。
「諸君、大儀である。事の顛末を説明しよう。道々躯を見たで有ろうが、我が一族が暴徒に襲われた。
幸いにして暴動は鎮圧されたが、問題は、この暴動は遨家と知って誘導された物だと言う事だ。
禁軍百万の指南で有り、天下に名だたる遨家極拳を、取るに足らぬ児戯と足蹴にされた訳だ」
京馨は高弟の一人に呼び掛ける。
「墨、これはあり得る事なのか?」
墨と呼ばれた高弟はそれに応じる。
「否!あり得ません、有ってはなりません」
京馨は別の高弟に問いかける。
「有ってはならない事が起きてしまった。安、では武門武林に生きる我々は、どうすべきなのだ」
「耐え難い屈辱です、敵対者に報復を!」
安と呼ばれた高弟は、回答を示した。
「その敵対者の所在が知れた、張参、張憲、ならば我々の成すべき事は」
張参、張憲とまとめて呼ばれた高弟が号した。
「行動有るのみ!」
「武威を示す!殺が妥当!」
「その通り!賊の首魁の所在が知れた今、手を拱く道理は無い!三品官の責務に則り、諸君に命を下す、賊を誅せ!」
「「「「応!」」」」
極拳士一門一同が一斉に号を発し、経を発した。
拳士だけでも三百を越える人員の発経だ、ビリリッとまるで落雷の様に空気が震えた。
「李、先駆けよ、賊の所在を示せ。然る後不出布陣を敷き、俺の到着まで賊を一人として逃がすな。
李、王の名代として皆を采配せよ、皆、李に続け!」
「「「「応!」」」」
李を先頭として高弟一門が駆けた。
ただ、墨と呼ばれた高弟がそこに残る。一門の者は李を追った。
「どうした墨、不服か」
墨一門が命に習ったのだ、別用だとは承知してはいるが、つい墨という弟子はからかいたくなる。赤子の頃から見知った門弟だ。
「お戯れを。老師、御報告です。墨老師が合力するとの事で、此方に向かっております」
「何だと、婆様が来るのか、要らんから帰らせろ」
言葉ほどには嫌がっている風ではない。
墨老師とは遨家極拳から分派した墨家極拳の総帥だ、何とも驚いた事に齢九十を経て今だ現役だ。
墨と呼ばれた高弟は墨老師の曾孫の一人であり京馨に預けられていた。
京馨がまだ張姓だった頃、墨紗蘭こと墨老師に教えを受けた事がある。
得体の知れない婆と、京馨は面白がっていた。
「またもやお戯れを、それに墨老師は言い出したら人の言葉は聞きません、諦めて下さい」
「どうして俺の周りにはこうも頑固者ばかりが群れるのだ、何かの罰なのか」
「母上、それより隊長殿を待たせ過ぎています」
奉可が進言するのとほぼ同時に墨は下がり、李を追った。
「永らく待たせてしまい申し訳無い、遨家当主、京馨だ。うん?隊長殿、貴殿の顔には覚えが有る。面識が有るように思えるが如何か」
「お忘れとは御挨拶に御座いますな、郭价で御座います、遨老師に教えを受けている者にて御座る」
「なんと、これは大変無礼をば、郭价殿、洛都治安維持警邏局副総監殿が陣頭指揮を取られるとは、まさか思う訳など無いで有ろうに」
互いに差手礼を交わす。
「父上、郭長官の御下命に御座います。遨家襲撃など余程な裏が無ければ有り得ないと、重きを見ている訳に御座る」
郭价は、科挙の、最終殿上試験に合格した進士だ。しかも首席で合格した英才で有る。
倉州の産で庄屋の毛家次男だったが、その才を見込んだ治安維持庁長官の郭淮が、娘を嫁し、更に嫡子縁組をし郭家の相続人としたのだ。
余談ではあるが、嫡子縁組した後では、縁組先の子女とは法的に兄妹となるので婚姻不可だが、婚姻後に嫡子縁組するのは構わない。
一度戸籍が移動するので、婚家世帯が嫡子縁組世帯とは別世帯と勘定されるからだ。
余談の余談になるが、進士に及第し各省庁に配属となると、最低でも六品官位が与えられる。
首席合格の郭价は五品官位を受官した。
郭价の実家は庄屋なので平民だが、郭家と嫡子縁組したことにより、郭价個人は士大夫階級となる。嫡子相続人になるのでそれは当然だ。
つまり郭价は士大夫貴人階級となる。
「して郭殿。警邏大隊はどうなさる、遨家私兵は暴徒の死体を引き上げる為に動かすが、警邏隊でこの地の治安を治めるのかな」
「質問に対して質問で答える事は、大層な御無礼とは存ずるが、遨老師こそ如何されますか?何やら内乱首謀者を特定された様子ですが、それによりけりに御座る」
「ああ、手の者に暴徒扇動者を追跡させて知れた。そうだ、郭殿、何人か扇動者を捕らえてある、警邏に貸そう。裏を取りたいので有ろう」
黄家の中庭の隅に、十名程の黒幇者が縛り上げてある。
最初の威勢も何処へやら、顔面蒼白で震えている。
当然だ。まさか襲撃したのが遨家所縁の、いや、紅衣を纏う貴人が抱き抱える程の重要人物とは思ってもいない。
黙秘を貫いて、何時もの如く庖大老が手を回す事を待っているつもりが、想像以上に大事だ。
紅衣の貴人が、高位警邏官を伴い此方に近寄る見るや命乞いを始めた。
“お許しを、遨貴人家とは知らなかったのです”
“騙されのです、お許しを”
“遨家と知っていたら、こんな事など!”
“人違いです、毋家と間違えたのです、決して遨家に危害を加えるつもりなど!”
「郭殿、中々面白い事を謳う者がいる、調書を取るに楽しくなるだろう」
「老師、毋家と間違えたと言っておりますが、毋家とは?遨家と何か関係が御有りか」
「……郭殿も面白いご仁だ、首席進士の頭脳が健忘する訳が無いのだが」
これは郭价のささやかな意趣返しだ、顔を忘れられていた事の仕返しだ。郭价は構わずとぼける。
「はてさて。…遨老師、先程貸すと仰られたが、そのまま警邏局に引渡しては下さらないのですか」
「ああ、奴等は遨家門前に晒す。七日七晩晒して殺す。だから貸すだけだ」
「では、檻車を手配しましょう、誰か!」
下級官吏が下知を受けて走った。
「郭殿、頼みが有る、娘を屋敷に送りたいのだが、俺の兵は暴徒の死体を運ぶので手が回らない、警邏の一隊を娘の護衛に付けてくれまいか?
俺が直接護衛しようと思ったが、墨の婆様がここに向かっているらしい、不在にする訳にはいかんのでな」
「御安い御用ですとも、胡小馨お嬢様ですな」
「……毋家は知らずとも、胡家は知るか、まあいい。奉可も紹介しよう」
これが、変人と評された、郭价と小馨との初対面となるのだが、応答したのは可馨で本当の意味での初対面はまだ先になる。
警邏中隊、百二十名に護衛されて小馨と奉可は帰宅した。
奉可は渋ったが、可馨が頼み込んでの同行となる。実際、奉可が残った所で成す事は無い。
それに奉可が帰宅せねば、遨家は現在責任者不在である。
何よりも京馨の“小馨を託す、留守宅共々守れ”の言葉に感銘を受けたのだ。
戦記、兵書を愛読する奉可は、こうした武張った言葉に弱い。
確かに屋敷を空にする訳にも行かない。今現在二人の老家宰が采配している筈で、些か手に余る事態で有ろう。
小馨護衛団と入れ違いに、墨家一行百名が到着した、
矢継ぎ早の武門武林の兵や拳士の登場で、ここ商屋小通りは騒然とし、この騒動は後々まで住人に語られる事となる。




