其方達、李、黄翠、この恩は忘れぬ
京馨は駆けた、縮地走神行歩だ。京馨の三練経は、歴代拳士中最高位に有ると言っても過言では無い。
その京馨が、全力三練縮地走神行歩で駆けたのだ、追走者が追い付ける訳が無い。
紀の他三名の師範が随行した。今日は午後から内弟子の功練総覧の為高弟が揃っていた。
その彼等にして追い付けないのだ。
遨大通りを一気に駆け抜け、黄家在所の商屋小通りに入る、暴動は鎮圧されているが、後難を避けた住民が、息を潜めて物陰や各自邸宅に潜む。
不穏と云うより、嵐の前に巣籠もりを決めた動物の様相である。
京馨の見るからに高価な礼装の身形と、異様な脚力に、物陰からの視線が集まる。
ここは、商家が集まる商屋街路だ、京馨の顔を見知る者も多い、いや、先程の一方的な武力鎮圧から、それは極拳士と知れる。
ここは遨家のお膝元で、女性の、それも高位と思われる拳士が疾風の如く駆けるのだ、
遨家当主だと、この界隈に住まう者なら容易に想像出来る。
その遨家当主が単騎駆ける様を見て、先程の暴動が、遨家絡みの容易成らざる物と知れる。
遨家当主に遅れる事三呼吸の間。四名の、これも高位拳士が行き先同じく駆け抜けた。
黄家は目前だ、道々転がる破落戸、浮浪者の死体など目もくれない。
黄家は李昆配下の護衛により不入布陣が敷かれている。門は閉ざされ、門前に李昆が陣取る。
京馨を認めると、李昆は跪く。差手跪礼だ。
「御当主様御自らの御出陣、我等の不甲斐なさに赤面、汗顔の至りで有ります。
若君様、お嬢様を危険な目に合わせてしまった罰ならば、我が身一つで御容赦を」
「なにを言うか李、道中見たが、よくぞこれだけの暴徒を防いだ、この恩は忘れぬ」
死体の数だけでも二百に届く、逃散した暴徒を合わせれば、数十倍の人員を殲滅したのだ、充分に護衛の任務は果たしたと言える。
「いえ、撤退の時期を誤りました、暴徒の察知が遅れ、御屋敷に戻れる機を逃しました。
結果、奉可様、小馨様を危険な目に合わせてしまいました」
これは仕方ない、細作や黒士が察知した時には、既に手遅れであったのだから。
「己を責めるな、誇れ。俺は娘の護衛に李を付けて良かったと思うぞ、改めて褒賞しよう。
それで、小馨はどこだ」
「ご案内します。御当主様が参られた、開門願います」
京馨は傍らに控える高弟達に向く。
「うん、お前達も不入布陣に加われ、誰も通すな」
“ハッ!”随行拳士達は拱手で応えた。
門内中庭は物々しかった、黄家の男手は武装し、放火に備えた水瓶があちこち設置されている。
「母上、御自身が参られましたか、有り難く存じますが、いささか軽挙に思えます」
「小言ならば後で聞く。奉可、無事でなによりだ」成人した嫡男の言だ、傾ける耳は持つ。
「遨老師、お久し振りにございます」
奉可の隣に控えていた文書が挨拶する。
「おお、黄文、久しいな。此度は迷惑をかけた、済まぬ。損害は当家に請求してくれ」
「はて、迷惑とは?当家は暴徒からご息女護衛衆より守られた側ですぞ、感謝こそすれ迷惑などと。ましてや損害請求など埒外ですな」
「では、娘の通う学問所に見舞金を贈らせてくれ、気が済まぬ。それで小馨が見えぬ様だが」
「それは私から。黄家門前で暴徒供から投石を貰いまして……」
「何だと!負傷したのか!」
「いえ、黄三娘が盾となり小馨は無傷です。見ての通り、今男手しか居ないので三娘の手当てを小馨がしているのですよ。その、三娘は妙齢な年頃で、人前で肌を晒す訳にもいかないので」
「何と!黄文、重ねて済まぬ」
「遨老師、それは違う。翠朱は小馨様を主と定めている、詫びではなく翠朱を誉めてあげてくだされ、私は誇らしく思いますよ」
「うん。黄文、黄翠、其方達に娘を預けた事は誠に正しかった、俺はこの恩は忘れぬぞ」
表の騒ぎを聞き付けて、本宅の方から小馨……可馨、と黄が出てきた。
二人の挨拶も待たずに京馨は小馨に飛び付き抱き締める。
「良かった、良かったぞ、よくぞ無事であった。黄、其方が身を呈して小馨を庇ったと聞いた、ありがとう、ありがとう黄翠朱」
「母上、いささか苦しく存じます。私は斯くの如く無事です、が……」
「む?可……」
「いえ、母上、その事で少しお話が御座います」
可馨が言葉を重ねてきた、京馨も何やら覚った様だ。
「黄文、俺は貴人責務の原則により、暴徒鎮圧の私兵を動かした。暫くしたらここに参陣するだろう」
「それは良いお考えです、暴動の鎮圧はされましたが、住民不安は拭えません。ここで遨家の武威をしめせば、住民も安心するでしょう」
ここは商店の多い商屋街だ、世情が安定しなければ、強盗、狼藉が発生しかねない。
瞬く間に暴動を鎮圧し、遨家武力を誇示すれば、民心も乱れ様も無い。何か有れば遨家が駆けつけると安心するからだ。
「うん、そこで黄文、それまで一室を借りたい、李から詳細を聞きたい事でも有るしな」
「御安い御用ですとも、こちらに」
「助かる、奉可も来てくれ、尋ねたい事が有る」
「分かりました。ただ母上、その前にこちらの商人達にも是非声を掛けて下さい、負傷した三娘や小馨を助け、また治療薬を提供してくれました」
「そうで有ったか」
そう言うと京馨は差手立礼で頭を垂れた。
商人一同は慌てて跪く。
「其方達の働きにより、我が娘とその従者が大事に至らずに済んだ、感謝する。
此度の暴動で其方達の負った損害は、当家で弁済しよう。
また、其方達は信頼が置けると判断する。当家への出入りを許可しよう。
誠に有難う」
そう言うと、京馨は再び頭を下げた。
貴人が差手傾頭礼を平民に(遨家も平民では有る)するなど、破格な事で有る。
商人達は跪いたまましどろもどろだが、娯楽冊子取扱いの文楽堂が、皆を代表して返答礼を返し、ようやく皆もそれに習った。
部屋は黄家本宅の応接室を借りた。学習学問所の方が印象深いが、黄家の家業は出版元だ、取引、打ち合わせで応接室は設えてある。




