わたしは……何も知らない……馬鹿だ
「成りましたって、どういう事。…ですか」
たった今決まった様な言い方だった。
「小馨様、体の中心は一定では無いのですよ。しかも小馨様はこれから成長なさいます。位置も変わります。
今の所はこれが理由です、ただ、大切な事なので、今思われた中心位置だけは忘れない様にして下さい」
「黄、さっきから小馨様に戻っているぞ。小馨、黄の言う通りだ、血液の流れの始点が、臍の下とは考え難いかもしれないが、漠然と体幹とするより体得が早い」
そう言って老師は黄師兄に向いた。
「黄、見事だ。つい先日初発経を果たしたばかりとは思えない解だ。小馨の功練も見極めている、黄に小馨を預けて正解だった」
黄師兄は差手で傾首する。
「老師の指導の賜物です。あの日“拍子とは心音”と教えて頂けたからです。あの一言で全てが繋がったのです」
「うん。黄。中位鍛練を許す、王に伝えておこう。そうだ、神行歩を教えよう。励め」
黄師兄…黄姐が喜色を浮かべる、わたしまで嬉しくなる。
「まあ、今は小馨だ。小馨、定めた中心から血液が体の中を廻ると、意識しながら兎歩を踏むのだ。初め動きがギクシャクするが、何れ導引する」
始めてみるが、成る程難しい。思考速度と実際の体の動きが揃わない。考えの方が遅い。三拍動作の歩行のが速いのだ。
動作の方を遅くすると、今度は凄く気持ち悪い。違和感で思考が途切れる程だ。
老師と黄師兄の監督の元に苦戦していると、可小姐が戻ってきた。
(いや、凄いね絡。内絡か、要研究だよ大姐)
何か分かったの?そんな凄い事が?
(まあ、百聞は一見にしかず。私の視界を同調するよ、さっき黒三に移った時に私も霊視出来る様に調整したんだ♪これで態々移動しなくて済むよ。ほれ♪)
軽く言っているが、黒靈使役術の奥義とも呼べる術だ。自身が霊魂であり、対象黒靈に輸魂分霊したからこそ簡単に施術できた業だ。
現段階では他者施術など旱導師でも出来ない業である。
あっ!
(ね、凄いね母上は。まるで光っているみたい。黄も濃いと思ったけど段違いだよ。それより二人の足腰注目)
何かが地面と往復している?速い。あんなに?
(何かヒントにならないかな?あんな感じで大姐の体を血液が廻ると想像するとか?)
試してみる。一呼吸で、血液が体を一巡する感覚で。
トン、遅い。
トン、まだ遅い、呼吸が遅い。
トン、そうだ、前に黄姐は一歩毎に呼吸をしていた。
トン、臍の下から心臓を経由して。
トン、頭の天辺まで駆け巡って。
トン、右回りに手足を廻った血液が。
トン、また臍の下のに戻ってきて。
トン、再び心臓を経由して。頭の天辺を目指す。
トン、それを一呼吸。一歩間で循環させる。
トン、やれ!わたし!
トン、やれ!
トン、やれ!
トン、やれ!
トン、やれ!
トン、……
トン、……
トン、……
トン、あっ!
トン、……
トン、………
トン、…………
ストン。
わたしは兎歩を止めた。
「母さま、黄姐。こういう事だったの」
何かが体を廻っている。当たり前だ、生きているのだからそれは血流だ。
でも、それは血では無い。
ただ、何かが体内を廻っている事が分かる。
それは当たり前では無い。
呼吸を意識してする事は無い。
心臓の鼓動は意識出来ても、血流を自覚する事は無い。
体を廻る何かは、血流であって血液で無い事はわかる。こんなに早く血液が体を循環しない事は知っている。
「驚いたな黄。こんなに早く気脈を通した門弟は居ない。そうだ小馨。血脈に気脈を載せたそれが絡だ。心の鼓動に乗った絡は広義で経絡と言う。
うん、嬉しや小馨。よくぞ極拳門を潜ってくれた。本日より黄門下の子弟で有る事を認める」
……わたしは…
………わたしは…
「わたしは………馬鹿だ……」
「小馨様?」
「うん?どうした小馨」
二人の心配気な表情に、わたしはポロリと涙した。
「母さま、黄姐。わたしは馬鹿だ、黄叔叔に学ぶ事を学んだと言われて、またもや分かった気になっていた……わたしは何一つ知らない馬鹿なのに」
わたしは、少しはマシになった差手礼を老師と師兄にとる
「わたしの世界は余りに小さく浅い物でした。母さまや黄姐が、わたしに与えてくれた世界はとても広大で深くて……不思議に溢れている」
悲しい訳でも、切ない訳でも無いのに涙が溢れた。これは感動だ、生まれて始めて感涙を流した。
兎歩経絡が成されたからでは無い。
こんな不思議な世界に誘ってくれた、二人の先達の存在と出会いに、感謝の感情が溢れたのだ。
あの日、母さまに拾ってもらわなければ、わたしは今も残飯を漁り、人の目の色に怯えて、その日その日を過ごし、数年の内に野垂れ死んでいた。
浮浪孤児の生涯など、そんな物だと言う自覚すらなく、極貧民街をさ迷い、そこが世界の全てだった。
「何の、まだまだこれからだぞ小馨。お前には俺の全てを伝える。そう、天下は不思議に溢れている、俺の知る不思議は余すところ無く教えるぞ」
母さまはわたしの頭を撫でてくれた。
「小馨様、無知の知を悟られましたね。天下は広大無辺、深甚玄妙で、全てを知りうる訳など無く、誰もが無知なのです。その無垢な気持ちをお忘れ無き様に」
(もしもし、大姐、よろしいかな?)
うん?何?
(私の方がまだ解決していないんだ、兎歩経絡を続けてくれるかな。視界は戻すね、何か自分がチカチカするのは落ち着かない)
視界が元に戻った。僅かな時間の筈だけど元の視界が懐かしく思えたのが不思議だ。
「母さま、黄姐、兎歩経絡を続けます。可小姐が何か試しているみたいなので」
「うん?可丘殿が退出してから静かだと思ったら、何かしていたのか」
「結果が出たら、教えてくれると言ってました」
わたしはそう言うと、兎歩経絡を踏んだ。
一度気脈を通したからか、一歩目から絡が体を廻るのが分かる。
わたしは亭の周辺で、くるくると回りながら兎歩経絡を踏んだ。
楽しい♪わたしは詩歌を知らないので、三拍拍子で鼻歌だ。
楽しい♪まるで踊りだ、体を廻る絡が心地良い♪
楽しい♪楽しい訳だ、母さまと黄姐が三拍拍子で手拍子を送ってくれている、本当に踊りの様だ。鼻歌が止まらない♪
どれだけ続けただろう、没我と言うのか、黄姐が止めてくれるまで兎歩経絡を踏んでいた。
ああ、楽しかった。全然疲れないから止められない♪
(いや、実際凄い集中だよ、これも内絡効果かな、絡は引き続き研究だ)
それで可小姐の方は何か分かったの?
(うん、仮説通りの結果が出た。足が生えたよ)
………何?それ?




