ここがわたしの中心位置
「うん、すっかり兎歩に馴染んだな、内絡も整っている。小馨は痩せ過ぎていたから心配したが、もう大丈夫だろう」
わたし達は中庭で軽く兎歩を踏んでいた、邸宅の中庭には湧水池があり、亭が設えて有る。
その亭内での事だ。
途中までは毋さまも兎歩を踏んでいたが、緊急で面会依頼があり中座したのだ。
可小姐は残念がったが、仕事では仕方ない。
「では黄。小馨に兎歩経絡の説明を」
わたしは黄姐に師事している。母さまは私的に極拳の指導をしているだけなので、段階的指導は黄姐からだ。
「はい。小馨様……胡嬢、兎歩を踏まれて、体調の変化には気がつかれましたか」
黄姐は指導時に、わたしに様付けするので、母さまを通して改めさせたのだ。
本当は、黄姐の“三娘”の様な通称呼びが良かったけど、黄姐は頑固だ。
折中案で胡嬢となったけど、嬢と呼ばれるにはわたしは幼いと思う。
「いっぱい有るかな…有ります。まず疲れなくなりました。息切れもしなくなったし、あまり汗もかかなくなったし、うん、集中しやすくなっ…なりました」
言葉使いを直している所だった。母さまは頓着が無いので、黄姐が指導に当たっていた。
一般的な常識も黄姐に教わっていて、手始めに、指導者には敬語を使い話す事を課題とされた。
わたしは近頃読み耽っている武侠、任侠物の冊子の影響で、敬語となると妙な言葉使いになるらしい。
「その通りです。筋肉、腱が育った事も有りますが、兎歩を踏むと血液の流れ、これは血脈と言うのですが、血脈が綺麗に整う、つまり無駄に脈動しなくなるのです」
「血脈?心臓の鼓動の事かな?」
「そうであり、そうでありません。心臓の鼓動は意思で制御出来ませんから。兎歩の三拍動作を心臓の動きと同調させる……と言うよりその内に同調してしまうのですが、これは三拍動作をするという強い意思が作用するからです。
体の各臓器もそれに習います。それらを含めて血脈と呼ぶのです。
どうですか、兎歩は実に不自然な歩行ですが、小…胡嬢は近頃は無意識でも兎歩を踏めるでしょう」
「はい、踏めまする」
(踏めます。時代掛かる物言いだよそれだと)
「踏めます」
言い直すとクスリと黄姐が笑う。いやぁ美人さんだ。こういう仕草は周囲で見ないから、つい見とれる。
黄姐が続ける。
「不自然な動作をすると、体は疲労します。だけど、その不自然な動作を続けなければなりません。そうすると、疲労を避ける為に自然と動作を最適化します。それには呼吸も含まれます」
「導引吐納……」
「おお、賢いな小馨。少し違うがそれも導引吐納だ。正しく動作を理解して、呼吸もそれに習う。実際やってみなければ言葉の意味は解らない」
「はい、母さま。黄叔叔……黄学老師にも似た事を教わっ…りました。知識を集める事と学ぶと云う事は似ているけど別物だと云う事を。実際やってみて導引吐納の意味を理解しました」
「黄文に感謝だ。あれは良い教師だ、なあ黄」
「私が言うのも変ですが、あれで頑固が今少し治まればと思うのですが」
「あれの頑固は、利己から来てないから無理だろうな。小馨はどう思う」
「凄い人。わたしみたいな子供にも、御為ごかしや子供騙しは、一切しないで語ってくれる。
うん、やっぱり黄姐…黄師兄は似ている。頑固と言う意味じゃなくて、言葉が真っ直ぐ届くよ」
黄姐は、嬉しそうにわたしの頭を撫でてくれた。言葉使いは大目に見てくれた。
「仲が良い事だ。黄文を真似るならば、喜喜だな。黄、続きを」
「はい。胡嬢…兎歩を正しく踏むと、心臓の鼓動に合わせて呼吸も揃い、動作も無駄を省いて最適化するのですが、実はこれも無駄なのです。
血脈は馴れれば兎歩を踏まなくても整うのですよ」
「え?それじゃ何の為に兎歩を踏むの…ですか」
「次に進む為にですよ。後は三拍動作を基本動作として体に覚えさせる為にです。
さて、折角無意識に踏めるようになった兎歩ですが、これからは動作を意識しながら踏んで下さい」
「小馨、兎歩経絡が口伝なのは正にこれが理由だ、心臓の鼓動は勿論、体格、年齢、性格でそれぞれが違うから一律的な指導が出来ない。
大前提で、兎歩を無意識に踏める所まで功練が進んでいないと出来ない鍛練だ」
「しかも、一見すると兎歩と変わらないので、目で見て覚える事が出来ないのです」
「それでは、どうやって兎歩経絡の鍛練が出来ていると判断する…のですか?」
黄姐と母さまが揃って含み笑いを浮かべた。
「それはな、自分で判断する。俺は言ったぞ、世界が変わると」
「老師の仰る通りです小馨様。絡が体を廻る事を実際感じるのです。“体の中を何かが廻る”のですよ」
この言い回しは気に入ったので、わたしは剽窃する事になる。
(ほう、内絡と。面白い大姐やってみて、私の仮説が合ってたら大姐にも教えるよ。黒三おいで)
可小姐が黒三に意識を移したようだ、感情が平らになるから分かる。
まあ、それより。
「黄姐…黄師兄。何に意識をしたら良いのかが解らな…りませぬ」
ククッと母さまが笑う、また妙な言葉だった様だ。そして黄姐を促した。
「血液の流れを意識して、それから呼吸を血流に載せる感じで」
「始点はどこだ、黄」
母さまが口を挟んだ。黄姐は母さまの末弟子だから、黄姐の教育も兼ねている。
「………体幹からです」
「体幹とはどこだ。俺で無く、小馨の功練に合わせての回答をしろよ、どこだ」
わたしは口をつぐむ。母さま、いや老師は黄…師兄に課題を与えたのだ。
黄姐はわたしに向き直った。
「小馨様、物には中心が有る事はご存じでしょう。例えば……」
そう言って、黄姐は地面に円を描いた。
「この円の中心は、考えるまでも無く此所ですね、ではこれは」
今度は歪な楕円を描いた。
少し考え、中心と思える場所を指した。
「はい。ではこれは?」
今度は、庭石を指差した。
わたしは庭石をぐるりと検分した。
「多分この場所から一尺ほど中に入った場所かな?」
「はい、よく解りましたね。では、小馨様の中心は何処でしょうか」
成る程、そう云う事か、やはり黄姐は頭が良いなぁ。
「お臍の辺りからお腹側に入った場所かな?いやもう少し下の場所」
「小馨様、その場所を覚えておいて下さい。そこが小馨様の中心に成りました」
母さまは満足そうに頷いた。




